【引退ブログ Vol.13】 服部玄太(サーブル/法学部/慶應義塾高等学校出身)

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平素よりお世話になっております。法学部法律学科 4 年サーブルの服部⽞太です。南⾥、紹介ありがとう。「尊敬している部員」と紹介してもらえて驚きとともに、この上ない喜びです。
ただ、彼が私のことを「異性を掌の上で転がしていた」などと⾔っていましたが、それは
完全に彼の⾃⼰紹介の間違いではないでしょうか。クールなルックスと鍛え抜かれた⾁体
を持った南⾥こそ、数々の浮名を流してきた同期随⼀のモテ男です。そんな彼に嫉妬して
いたのは、むしろ私の⽅でした。
また彼は、あんなに⽴派なガタイをしていながら、実は同期の誰よりもデリケートな体質
の持ち主でした。なかなか下がらない熱や不思議な負傷など彼の⽋席連絡はもはや部内の
⼀種の名物でした。しかし、そんな抜けたところがありつつも、やる時はやる、そして誰
よりも場を盛り上げる彼の存在に、私は何度も救われてきました。
⽇本⼀のエペチームという過酷な環境で、持ち前のメンタルとフィジカル、そして適度な
抜き加減を武器に戦い抜いた彼なら、社会⼈になっても要領よく、かつ情熱的に⼤成功を
収めることでしょう。
さて、南⾥からの紹介でハードルが少し上がっていますが、ここからは私⾃⾝のフェンシ
ング部での 7 年間について、少し振り返らせていただきたいと思います。拙い⽂章にはな
りますが、お⼿隙の際に読んでいただけると嬉しいです。


私のフェンシング⼈⽣が始まったのは、⾼校 1 年⽣の春でした。
中学まではサッカー⼀筋の⽣活を送っており、⾼校でも当然のようにサッカー部に⼊るつ
もりでいました。
⾒学に向かった私を待ち受けていたのは、部員数が 100 ⼈を超えるマンモス部活の異様な
光景です。1 年⽣は名前とポジションをマッキーで⼤きく書いた T シャツを着せられ、た
だひたすら⾛り続ける。岡⼭で、のびのびとサッカーをしていた私にとって、その光景は
恐ろしいものに映りました。
サッカー部の⾒学で打ちのめされ、あてもなく蝮⾕を歩いていた時のことです。ボロボロ
の旧道場から、⼀⼈の⼥性が出てきました。のちに恩師となる「さとこさん」です。

彼⼥は、ひとりぼっちで所在なげに歩いていた私を⾒つけるなり、温かい声をかけて勧誘して
くださいました。サッカー部の⾒学でビビり散らかし、「部活どうしよう」と悩んでいた僕
に彼⼥が差し伸べてくれた⼿はあまりにも温かく、魅⼒的に映りました。さとこさんは持
ち前のマシンガン勧誘トークで僕を圧倒し、気づけば⾼校始めの中では最初に⼊部を決め
ていました。あの⽇、吸い寄せられるように道場に⼊った瞬間が、私のすべての始まりで
した。
しかし、そんな運命的な出会いを果たしたフェンシング⽣活も、決して順⾵満帆ではあり
ませんでした。⾼校時代はコロナ禍や⾻折に泣かされ、⽬標であったインターハイにも出
場できず、不完全燃焼。⼤学⼊学当初は「フェンシングはもういいや」と⼥の⼦のいるサ
ークルで遊ぼうとも考えましたが、そのゆるい雰囲気に危機感を抱き、結局夏には再び剣
を握っていました。
1 年時はとにかくがむしゃらにプレーし、インカレと早慶戦にも出場することができまし
た。あまり考えすぎずに、ただ⽬の前の練習と試合に集中することである程度の結果が出
せていました。そしていつしか「俺は強い、これからのサーブルチームの中⼼には⾃分が
いる」と、根拠のない⾃信に満ち溢れていました。
しかし、2 年⽣以降、現実は残酷でした。⼤学に⼊ってからはなんとなく結果が出ていた
ことから、練習をこなすような感覚で毎⽇道場に通い、⾃分のプレーの分析から⽬を背け
ていました。そうして⾜踏みをしている間に、周囲は⽬覚ましい成⻑を遂げていきまし
た。今までは当たり前に勝てていた同期や後輩に勝てなくなり、気づけば、かつて⾃分が
中⼼にいると信じて疑わなかった団体戦のメンバー表に、私の名前はありませんでした。
メンバー外として、ピストの外から仲間を⾒守る時間。応援席で声を張り上げながらも、
⼼の中では⾔いようのない焦燥感と、⾃分に対する不甲斐なさで胸が締め付けられていま
した。何度かチャンスをいただいて出場した団体戦でも、私は全くといっていいほど⽖痕
を残すことができませんでした。喉から⼿が出るほど欲しかった団体戦のチャンスでも、
何もできない不甲斐なさと⾃分への怒りは、今でも鮮明に覚えています。
そんな中、4 年の最初の⼤会後にある後輩とサシで飲んでいる時、今でも忘れられない出
来事があります。不意に彼からこう聞かれました。
「服部さんって、本当にメンバー⼊りたいんすか?」
悪気のない、純粋な疑問だったのだと思います。しかし、その⾔葉は当時の私の胸に深く
突き刺さりました。誰よりもメンバーに⼊りたいと願い、⾜掻いているつもりでした。け
れど、弱い部分を⾒せられず、どこか余裕のあるフリをしていた私の虚勢は、⼀番近くに
いる後輩にさえ「本気で上を⽬指していない」と映ってしまっていたのです。⾃分の本意
が誰にも伝わっていない虚しさと、不甲斐なさを覚えました。
それからの4年⽣としての 1 年間は本当にあっという間で、気づけば最後の合宿も個⼈戦
も終わり、結局最後までベスト 16 の壁を越えることはできず、個⼈として⽬⽴った結果を
残すことは叶いませんでした。それでも、私の中から早慶戦への気持ちが消えることはあ
りませんでした。
1 年⽣の時、あの熱狂の中で何もできずに惨敗した悔しさ。あの景⾊を、ただの苦い記憶
で終わらせたくない。もう⼀度、あの歓声の中で、⾃分らしくプレーしたい。その執念だ
けが、出⼝の⾒えないトンネルを⾛り続ける私を⽀えていました。

早慶戦の約 1 ヶ⽉前、メンバー発表があり、私の名前が呼ばれました。その帰り道、夜⾵を浴びながら⼀⼈で歩き、⾃分⾃⾝に強く誓ったことを覚えています。
それまでの実績を考えれば、選ばれたことには嬉しさと同時に、正直少しの驚きもありま
した。しかし、選ばれなかった部員たちの想い、これまでお世話になったすべての⼈への
感謝、そして何より、苦しみ抜いた⾃分⾃⾝のために、この⼀戦にすべてを捧げよう。そ
う⼼に決めた時、不思議と迷いや不安は消えていきました。
迎えた早慶戦当⽇は、⾃分でも驚くほど緊張していませんでした。
会場には、最⾼の舞台を整えてくれたマネージャーや部員たちが作り上げた、素晴らしい
空気が流れていました。そんな⼈⽣で最⾼の舞台に⽴った時、湧き上がってきたのは恐怖
ではなく、「ここで⾃分はどんなプレーができるのか」という純粋な期待でした。誰より
も、⾃分⾃⾝が⼀番ワクワクしていました。
最⾼潮の興奮の中、無我夢中で剣を振り、気づけば試合は終わっていました。
試合が終わった瞬間、ずっとお世話になった監督・コーチ陣と握⼿を交わし、苦楽を共に
してきた同期と後輩、そして懐かしい先輩⽅や駆けつけてくれた友⼈らが最⾼の笑顔で私
を迎え⼊れてくれました。そして⼀段落して、剣を⽚付けているときに初めて「ああ、終
わったんだな」という実感が込み上げてきました。
あの時、胸に去来したものは、なかなか⾔葉では説明できない複雑で、それでいて澄み切
った感情でした。でも、はっきりと⾔えるのは「後悔はない」ということです。
これまでの 7 年間、苦しい時間の⽅が圧倒的に⻑かったけれど、あの景⾊を⾒られただけ
で、すべてが報われました。間違いなく、⼈⽣で最⾼の瞬間でした。
そして今、引退にあたって後輩たちにどうしても伝えたいことがあります。
それは、「弱みを⾒せられる⼈間であってほしい」ということです。
私は、昔からどうしても「カッコいい⾃分」でいたいと思ってしまう性格でした。⾃分の
悩みや葛藤、惨めな思いを他⼈に共有することが極端に苦⼿でした。家では⻑男として
「完璧な兄」を装い、部活でも「余裕のある先輩」であろうと必死に虚勢を張っていまし
た。
正直に告⽩すれば、私は引退するこの瞬間まで、⾃分の弱さを周囲に完全に曝け出すこと
はできませんでした 。
でも、だからこそ今の君たちに伝えたい。⾃分⼀⼈で⻭を⾷いしばって⾜掻いても、独り
よがりの努⼒には限界があります 。抱え込めば抱え込むほど⼼は余裕を失い、パフォー
マンスは濁り、本来進むべき道が⾒えなくなっていきます。私はその苦しさを、嫌という
ほど味わってきました
慶應のフェンシング部には、本当に素晴らしい仲間がいます。
もし君たちが⾼い壁にぶつかり、⾃分の無⼒さに絶望しそうになったら、どうかその弱さ
を隠さないでほしい。泥臭くても、格好悪くてもいい。信頼できる仲間に、今の苦しさを
⾔葉にしてぶつけてみてください。
弱さを曝け出すことは、逃げでも⽢えでもありません。むしろ、⾃分の現在地を認め、仲
間を信頼して⼀歩踏み出す「真の強さ」です。誰かに話すだけで、⼼は驚くほど軽くなり
ます。そして何より、⾃分⼀⼈の狭い思考では辿り着けなかった「新しい視野」を、仲間
が必ず授けてくれます。
私の⼈⽣で最も苦しく、そして最も輝かしかったこの 7 年間。その最後に辿り着いた答え
がこれです。どうか仲間を信じ、等⾝⼤の⾃分をぶつけ合い、最⾼のチームを作ってくだ
さい。君たちの挑戦を、⼼から応援しています。
最後になりますが、この 7 年間という⻑い歳⽉を⽀えてくださった皆様に、⼼からの感謝
を伝えさせてください。


監督・コーチ陣の皆様
右も左もわからなかった私を、どんな時も⾟抱強く⽀え、⼀⼈前のフェンシング選⼿へと
育ててくださいました。技術はもちろん、⼀⼈の⼈間としての在り⽅を説いてくださった
皆様のご指導がなければ、今の私はありません。最後、握⼿をした時の⼿の温かさは⼀⽣
忘れません。本当にありがとうございました。


先輩⽅
⽣意気な態度をとってしまったこともありましたが、いつも温かく⾒守り、導いてくださ
いました。伸び悩み、なかなか結果で恩返しができませんでしたが、最後の早慶戦の後、
多くの先輩⽅に「服部、本当によかったぞ」と声をかけていただけたことは、何よりの救
いであり、最⾼の喜びでした。


同期のみんな
7 年間、⼈⽣で最も濃密な時間を共に過ごしてきました。数えきれないほどの苦楽を共に
し、時にはぶつかり、時には夜通し語り合いながら、最後まで誰⼀⼈⽋けることなく 18
⼈全員で引退を迎えられたことは、私の⼈⽣において⼀⽣の財産です。この代で、このメ
ンバーだったからこそ、私は最後まで⾛り抜くことができました。みんな、本当にありが
とう。


後輩たち


3 年⽣
本当にパワフルで、圧倒されるほどエネルギッシュな代でした。正直、⽣意気な時の⽅が
多かったけれど、本来引っ張るべき⽴場の私が、君たちの勢いや貪欲な姿勢から吸収させてもらったことの⽅が遥かに多かったと感じています。君たちが来年どんなチームを作り上げ、どんな景⾊を⾒せてくれるのか。⼼から期待してるよ。


2 年⽣
⼀⾒すると不思議な⼦が多い代ですが、実は⼀⼈ひとりが内に秘めた情熱は誰よりも強い
と信じています。感情を露わにするのが苦⼿な⼦ばかりだけれど、その静かな闘志はそれ
ぞれとの会話の節々で確かに感じていました。⼀⽪剥ければ、他を⾷っていけるポテンシ
ャルはあるから、みんなの覚醒を待ってるね。


1 年⽣
全員とにかく負けず嫌いで、常に上を狙う姿勢が印象的な代でした。君たちのそのギラギ
ラした⽬は、最⾼学年としての私のプライドに何度も⽕をつけてくれました。君たちが⼀
番下にいてくれたから、最後まで⾃分の背中を律することができました。これから先輩に
なっても、そのギラついた気持ちを忘れないでね。


両親
まずは、⾼校から家を出て慶應に⼊るという決断を全⾯的に後押しして送り出してくれた
こと、本当にありがとう。岡⼭を離れてから今⽇まで、起こる出来事すべてが初めてのこ
とばかりで、たくさんの⼼配や苦労をかけました。しかし、その決断があったからこそ、
フェンシングというスポーツに出会い、最⾼の仲間に囲まれ、当たり前ではない濃密な経
験をたくさんさせてもらうことができました。あまり試合に呼んで活躍を⾒せることはで
きなかったけれど、最後の早慶戦で、少しは息⼦として成⻑した姿を⾒せられたかなと思
っています。4 ⽉からは社会⼈として、本格的に独り⽴ちします。これまでの⼈⽣で得るこ
とができたたくさんの経験と、いただいた愛情を胸に、⾃信を持って社会へと踏み出しま
す。今まで本当にありがとう。そして、これからもどうぞよろしくお願いします。

弟たち
家を出た⾃分の背中を追って、競技は違えど同じ慶應の体育會という厳しい世界で努⼒し
続ける⼆⼈の姿は、⾃分が折れそうになった時に何度も私を奮い⽴たせてくれました。⼀
番近くにいるライバルであり、戦友でもありました。私は⼀⾜先に社会⼈という新しいス
テージに進むけれど、これからの⼆⼈の活躍を兄として誰よりも応援しています。期待し
ているぞ。

その他にも、ここに書ききれないほど多くの⽅々に⽀えていただきました。⼼より御礼申
し上げます。本当にありがとうございました。

最後に次のブログを綴る部員の紹介です。
次は、⼥⼦リーダーとして部を⽀え続けてくれたフルーレの渡辺瑚⼦ちゃんです。
彼⼥はこの 1 年間、⼥⼦リーダーとしてチームを牽引し続けてくれました。その集⼤成と
もいえる早慶戦での⼥⼦フルーレの劇的勝利は、間違いなく彼⼥の存在なしには成し得な
かったものであり、彼⼥こそが最⼤の功労者だと⾔っても過⾔ではありません。
彼⼥の凄さは、1 年⽣の頃から決して⾃分の結果だけに執着せず、常に「部がどうあるべ
きか」という全体最適を考え、⾏動し続けてくれた点にあります。その献⾝的な姿勢に
は、種⽬を問わず部員全員が信頼を寄せていました。
サーブルの僕は、普段の練習で彼⼥と顔を合わせるのは⽉に⼀度あるかないかという頻度
でした。しかし、たまに会った際、彼⼥から「体ゴツくなった?」と声をかけられたこと
があります。⾃分の⼩さな変化に気づいてくれたことが、実は僕にとって鮮明に覚えてい
るほど嬉しかった出来事でした。
そんな細やかな気遣いと熱いリーダーシップを併せ持つ彼⼥が、引退にあたって何を語る
のでしょうか。ぜひご期待ください。