【引退ブログ Vol.17】 戸田拓海(フルーレ/医学部/慶應義塾高等学校出身)
【引退ブログ Vol.17】 戸田拓海(フルーレ/医学部/慶應義塾高等学校出身)

「人を愛し、組織を愛した先に自分の幸せがあった」
慶應義塾體育會フェンシング部を応援してくださっている皆様、平素より大変お世話になっております。慶應義塾體育會フェンシング部副将兼フルーレリーダーを務めさせていただきました4年フルーレの戸田拓海です。
納会も終わり、年内の部員との予定がすべて終わり、自分の故郷であるロサンゼルスに行く飛行機の上で、やっと落ち着いて、自分と向き合って自分の過去の清算をしようと思いこのブログに取り掛かっているわけですが、後輩たちからの超長文の連絡や同期からの連絡、同期からの怖いくらい長い手紙などなど愛する部員からのメッセージを今まとめて読んでしまい、太平洋の真上で大号泣しながら執筆することになっております。本当に最後まで泣き虫なようです。本来であれば、形式に則って硬派な文章を書くべきであるとは分かっておりますが、そんな上手な文章を自分は書けませんので、将来の自分が悩んだときに見るべきメッセージのようなつもりで自分に向けて引退ブログを執筆させていただきます。本当に申し訳ありません。そもそも、引退ブログを執筆する目的とはというところに立ち返ると、自分はそれを全く理解していません。誰かに読んでもらうためというよりは、引退をまもなく迎える部員の焦燥感や引退後の喪失感と向き合うために、自分と向き合って自分自身のために書くものではないかなどと考えつつ、ならばこの引退ブログを執筆すれば自分の今のこの虚無感や喪失感はなくなるのだろうか、「いやそんなわけないんだよなあ」などとも考え、とにかく自分との答え合わせのような文章にしようかなと考えております。自分でも一体どんなに長い文章になるのだろうと恐怖しながら、手探りで一文字一文字、時間をかけて綴って参りますので是非お付き合い頂けましたら、幸いです。ちなみに綴り終わってから読み直すと本当に本当に長いので、覚悟して読み始めて頂ければと思います。
まず、坂藤君、心のこもりすぎた紹介文をありがとうございます。坂藤君には心がないものだと思っていたのですが、自分への紹介文が想像以上に長く、温かいものであったため、自分の勘違いだっただけのようです。9年目なのにこんな遅くまで気付いてあげられなくて本当にごめんなさい。「フェンシング部を愛し、フェンシング部に愛された男」というフレーズ、とても光栄です。これから使わせていただきます。坂藤君との出会いは中学2年生のクラスが同じになったところからでした。元々フェンシングで日本1を取った化け物みたいな奴がいるという話だったのですが、実際に話してみると一緒に教室を汚し、ベニヤ板で遊び、しょうもない話をひたすら一緒にし続ける悪友だったような覚えがあります。中学校の時のクソガキエピソードをこんなところに綴ったらきっと彼は怒ると思いますからあまり書きませんが、それはそれは大好きな友達でした。確かに、中学校でフェンシングの練習をしていた坂藤君のところに冷やかしに行ったときは本当にさと子さんに冷ややかな目で見られたような気がしないこともないですね。そして、10年やっていたテニスを辞めて、高校から何か新しいスポーツをしようと思っていた自分がフェンシング部の門戸を叩いたのは坂藤君のせいでもあり、おかげでもあります。一応、ここではおかげと述べておくことにします。高校に入ってからも結局、悪友ではありましたけれど、部活を通して、坂藤君って結構、いやとんでもなく、すごい人だったのだなあと何度思わされたことかわかりません。フェンシングに関しては絶対に敵わないと。その後、コロナの時期もありましたが、高校2年生で再び同じクラスになり、主将と副将という立場になり、坂藤君と部活の話をする時間も少しは増えたかと思います。坂藤君は周囲には「人の心を失った、もしくはもともと持っていなかった」などと未だに揶揄されていますが正解は前者です。主将としてチームのためにマネジメントを頑張り、部員にたくさん情熱を注いで、人に期待していた、そんな姿も自分は見せてもらいましたが、なかなか上手くいかず、かなり主将としてもがいていたように見えました。そんな経験がありますから彼には人の心が無いように見えますけれど、本当はすごく優しくて懐深い男ということなのです。はい、異論は認めます。褒めているのか貶しているのかわからない文章はここらへんにして、その後の話をすると、主将である彼を差し置いて、自分は副将として様々なことで出しゃばって、坂藤君の愚痴を澤田さんやさと子さんにもして、なかなか嫌な思いをさせてしまったような気がします。ごめんね。あとはやっぱりインターハイ予選は忘れもしませんね。全国選抜でエペが優勝して、凄い、おめでとうという想いとともに、おこがましくもフルーレも結果を出して見返してやりたいと思っていたのですが自分は団体戦も個人戦も全然インターハイには届かず、そして坂藤君はインターハイ個人で優勝するという自分にとってはこれもまた嬉しくも悔しかったエピソードです。インターハイ予選の団体のことは一生忘れません、いつまでも「根に持ちすぎぃー」と突っ込んでくれると幸いです。大学に入ってからは、お互い忙しくなかなか会う頻度も減ってしまいましたが、坂藤君が練習にいると嬉しいし、試合の結果ではいつも刺激されていて、特に最後の一年はエペを見返してやるくらいの結果を出してやるという自分の中の競争心も大きかったです。また、自分が大学2.3年の時に部活を続ける目的を失いそうになった時も話を聞いてくれて、自分がどれだけフェンシング部を愛しているかを共感はできないかもしれないけど本当に理解してくれていたと思います。
そんな感じで、勝手に坂藤君のことは心の支えであり、ライバルであると思っていたのですがユニバーシアードで優勝したときは本当に心の底から嬉しかったです。改めておめでとう。最後の一年間は自分が悩んだときに、幹部として、個人として、様々相談しましたが、やっぱり自分は坂藤君に依存している部分があるなと思います。いつどんな相談をしても冷静で的確で納得させられる回答が返ってくるので、地頭とか論理的思考力とかおそらくフェンシング部の同期の中で一番高いのではないかなと密かに思っていて、いわゆる学力ではなく人生を生きる上での頭のよさや人間力は本当にすごいなあと感じております。これは本音です。ただ、やっぱり一つだけここに書かないといけないことがありますね。そうです、慶早戦です。お世辞ではなく、慶早戦の敗北はチーム全体の責任だと思いますけれど、自分と一緒に一生責任とってねということで、30年後でもまだ笑い話にならないくらい慶早戦の悔しさは自分の中でとっておきますよ。いろいろ書きましたけど、自分は素直じゃないだけで、坂藤君のことが大好きですし、友人として、フェンサーとして、同期として、本当に尊敬しています。本当に本当にありがとう、末永くよろしく。まあ久しぶりに旅行にでも行こう。
ということで坂藤君から頂いたバトンを繋げ、ここから本題に入らせていただきます。おそらくこの引退で基本的には剣を置く自分としては今後しっかりと振り返ることもないですから自分のフェンシング人生7年間を振り返ろうと思います。その前にですね、ほんの少しだけ中学時代の自分のことを記すと前述のとおり、先生に迷惑をかけ続け、学年中で悪評が轟き、一時は「国王」と揶揄されるような本当に大暴れ中学生でした。小学校の時に受験勉強ばかりしていましたからその反動が来たのだとは思いますが自分でもさすがにやりすぎていたなと反省しています。こんなどうしようもない中学時代の自分の在り方を一言で示すと、「自分を表現することを学んだ」3年間だったように分析しています。
高校編
そのうえで高校に入学し、前述したように高校のテニス部の雰囲気が合わないと思いテニスを辞めようということで、坂藤君の影響で昔の古く汚くも趣深い道場の門戸を叩きました。そうしたら、とても優しい先輩方の勧誘やインターハイ・関東大会に向け、死に物狂いでフェンシングをしている先輩方の姿があり、圧倒されながら、さらに直後に小林さとこさんというコーチに圧倒されました。がっつりと自分の心は掴まれて、「自分はこの部に入るのかあ」と朧げに思ったような記憶があります。体験入部をすると、ある先輩に凄い声を掛けていただいて、メタルジャケットを貸して頂き、なんてイケメンで紳士的な先輩なんだと思い、惚れました。ここらへんで入部を確信していた気がします。そこからは毎日練習の日々でした。週6という練習量は中学の自分に比べたらすごい練習量で、毎日学校に行って部活をするのがやっとだけれど、がむしゃらに目の前のことを頑張ればいい日々で非常に充実していました。入部間もないのに、関東大会やインターハイにも応援に行き、なぜ自分は鹿児島のインターハイまで応援に来ているのかよくわかってはいなかったですが、先輩たちの熱い思いを受け取れたのでそれも今となってはいい思い出です。3年の先輩方が引退されて、夏の練習が始まりましたが、8月末の夏合宿で大学生に殺されると聞いていて戦々恐々としていた自分は毎日家で下手くそなアタックを数百本打ってみたり、トレーニングをしてみたりとどうにか夏合宿に備えていました。そして迎えた夏合宿、正直、死んだんだと思います。コロナ後の部活では考えられないようなトレーニングメニューを終わりがいつ来るかもわからずただひたすらやらされて、大学生は怖いのでずっと心は落ち着かず、熱いし、虫には刺されるしで、史上最悪の夏合宿でした。あれよりも苦しいことはそうなかなかないと思います。時々高校初めの僕らを大学生の練習から引き抜いて優しく指導してくれた澤田さんは本当に天使かと思いました。本当に。あの時の狂ったメニューを一緒にやり切った同期とはその時にちょっと絆が芽生えたような気がします。あのサーブルのトレーニングやばかったよな。そんなこんなで秋シーズンに入ると、水戸全国カデや新人戦、SFCとの交流戦など初めての公式戦が始まり、正直思ったより勝てた記憶があります。なんかわからないけれど、プールは上がれて、トーナメントも1回か2回くらい勝てるみたいな感じで自分としては、成長していく自分がとっても楽しくて、フェンシングのモチベーションがとても高かったです。新人戦も関東選抜も先輩と坂藤君のおかげで団体で勝てて、自分はなぜか5番手に入れていただいていたので関東選抜の決勝で選手紹介されたときは本当に嬉しかったです。
ここら辺までが自分のフェンシングの楽しかった記憶でここからはどんどん楽しくなくなってまいります。選択旅行という高校の旅行が重なって、春合宿には行かなかったのですがその選択旅行の後半で新型コロナウイルスの流行が始まりました。突然、学校から新型コロナウイルス流行につき、部活動の一切を禁止と通達され、自分としては練習無くなるんだー、やばいなーくらいにしか思っていなかったですが、蓋を開けてみれば全国選抜は中止され、4月からの2年生としての学校も始まらず、インターハイもなくなってしまい、急に代交代。全く心身ともに成長していないのに副将に任命され、コロナで練習ができない状況をどうしようとあたふたした記憶があります。ただ、やる気のある後輩たちがいて、澤田さん、さとこさんというコーチがいたので、Zoomでフットワークをしたり、トレーニングをしたり、動画共有して分析したりといろいろして、それはそれで楽しかったのではないでしょうか。さと子さんには、今も大事な学生の時間が失われているんだよと言われ続けて、ある二人の先輩たちと毎日毎日、さと子さんにフットワークの動画を送り続けて、「面倒だな、やりたくないな」と何度思ったことかわかりませんけれど、今となってはあれもやっていてよかったですね。
そんな感じで主体性の無かった自分は練習をやらされている状態で、自分の代の新人戦は何とか開催されましたけれど、エペの3人にフルーレの団体メンバーを取られて、当たり前のように去年同様勝てると思っていた新人戦の団体戦の決勝で横浜商大に負けた時に、思っていたより悔しくて試合会場の端っこで初めて泣いた記憶があります。フルーレリーダーである自分のチームで当たり前のように勝てると思っていたものが当たり前じゃなかったと気づき、昨年までの先輩方がいかに強かったかを実感し、本当に悔しい思いをしました。そして、二年生の3月にはエペが全国選抜で優勝、前述のとおり喜びと悔しさの狭間にいながら吉祥寺のカフェかなんかで坂藤君をスマホ越しで応援していた記憶があります。きっとその期間も自分は真剣に練習しているふりをいていましたが、今考えると練習量としては間違いなく足りてなかったのだろうなと思います。1年生の時の、目の前の練習に死ぬほど熱中していたころに比べて少し冷めた期間だったのかもしれません。
そして3年生になって1発目の試合、4月の関東大会の予選で、緊張しすぎたのか余計な事を考えすぎたのか、全く何もできず最初のプールで全敗で敗退。案の定、試合会場の端で一人で泣いて、なぜかさと子さんがその日会場にいらっしゃらなかったので、さと子さんにOKに見せかけた0を手で作った写真を送り、さと子さんは意味が分からず戸惑っておりました。自分の敗北を自分以上にさと子さんが受け入れられてなかったみたいです。この時に個人で関東大会に行けたのは一個下の二村君だけで、それも悔しかったですが、澤田さんに「こんなに関東大会に行けない代は久しぶりだよ」と落胆されてしまい、本当に申し訳ない気持ちになりました。その数週間後には関東大会本戦の団体戦があり、この試合はエぺのみんなとともに自分も出していただきましたが、埼玉栄にボコボコにされて、全然勝てない日々でした。悔しくておかしくなりそうで、関東大会の団体戦のあとに自分は吹っ切れてしまった記憶があります。
この試合の直後から命を誰よりもかけてインターハイ予選に向けるようになり、その時の全力さとか情熱とか、死に物狂いに熱中する感じとかはよく覚えています。そこからは覚悟が完全に決まって、情熱で毎日フェンシングをして、練習もめちゃくちゃ強かったような、、、そして迎えたインターハイ予選個人戦、1回戦、2回戦は着実に勝つことができて、3回戦は横浜商大とSFCの子の2回、1本勝負を制して準決勝に行き、準決勝では小西君には負けるがぎりぎり決勝プールには上がれました。未だに、「高校初めでそれは頑張ったね」と時々言われますが、あの時ほど、がむしゃらで余計な事を考えていない試合はないです。最後は体力とメンタル切れで全然勝てず5位でしたけれど、初めて賞状をもらって、自信がついてきっと嬉しかったのだと思います(満足しているということは個人でインターハイは目標として本気では目指せていなかったということにもなりますけどね)。この時に、満足している自分がいるとともに、インターハイ個人出場が決まった小西航路君が隣のピストで泣いているのを見て、「団体では自分が嬉し涙を流す」とさと子さんに言ったのは忘れもしません。そして、すぐに時は流れ勝負の日、2021年6月13日、善行体育館で団体戦がありましたが、蓋を開けてみれば0-5で横浜商大に完敗、自分のパフォーマンスも1試合目はダメダメ、2試合目は割とフローに入り切っていたけれど1本勝負で勝ち切れずという結果でした。もちろんその試合前後も号泣しているわけですが、その時の想いはきっとその時の方が鮮明だろうと思いますからその時に書いた文章を以下に添付しておきます。
高校引退 感想(慶應高校の後輩には引退直後に送ったと思いますが)
3年間の集大成の試合としてインターハイ予選に臨んだ。結果としては横浜商大に完敗であり、結局新人戦から今まで商大に勝つことは出来なかった。確かに、神奈川予選を勝ち抜くことはかなり厳しいことではあるが、昨年に比べれば、気持ちだけではなく、技術面でも本気で勝てるビジョンを持っていたと思う。団体戦の内容について言うと、一試合目の〇〇との試合は正直、力みすぎだし、どこか本気度が足りなかったのか、とても情けない内容の試合だった。対照的に五試合目の〇〇との試合は、清々しい気持ちで、全く諦めずに試合に臨んでいたと思う。パフォーマンスも全然違ったし、ベンチや応援との一体感もあったので凄く気持ちのいい試合だった。この一試合目と五試合目の試合への臨み方の違いというのは確実に覚えておくべきだと思うし、一生忘れられないと思う。商大戦、もう変えられない結果だが、実力差はあったが、勝てる試合だった。初戦で僕がもっと気迫と盛り上げをチーム全体に伝搬させることが出来ていたら流れが全然違っていて勝てたと今となっては思う。この二週間、僕は団体戦で絶対に勝つという思いで緊張感を切らさず、必死にやってきた。ただ、その緊張は結構極限状態で、後輩や先輩、サポートしてくれた大人の方々から応援の言葉を受けるたびに涙がこぼれそうになっている自分の弱い部分を感じていた。その緊張は負けた後に、同期のみんなに背中を叩かれた時に溢れてしまった。今回の試合で悔いを残してしまったことは沢山ある。だけれども、一番大きな後悔は団体として完成していなかったことだ。SFCの決勝を見て、一体となった団体戦が出来ていると思ったが、慶應高校はチームメイト全員で一体とはなれてなかったと思う。団体メンバーだけでなく、選手に選ばれなかったフルーレのメンバーや、応援のエペ、サーブルの選手たちがどこまで本気になってくれたか僕には分からない。けれども、全員が僕と同じ気持ちで、試合の日を迎えてはいなかったと思う。ここは僕のチーム作りの甘さであり、悔いではある。
2年生はこれから1年間あるわけだが、技術だけではなく、チーム作りをみんなで丁寧に丁寧に考えて欲しい。良いチームというのは全員が同じ方向を向いて、同じ思いを持って全力で取り組んでいるチームだと思う。チーム目標を違う認識にしてもダメだし、練習に真剣に取り組まないのももちろんダメだ。フェンシングは3種目に分かれているのでなかなか難しい部分もあるが、全員の目標・目的の部分は明らかにするべきだと思う。僕が見て来た限り、今の2年生は一人一人が本当に真剣に取り組んでいると思うのでそこからはそれぞれの意見をすり合わせて、本音で話せるチームになって欲しい。1年間なんて本当に一瞬なので、一回一回の練習に全力で取り組むことは当たり前だし、神奈川で絶対に勝つという意識をずっと持ち続けて必死に練習をして欲しい。呼ばれたら練習に行くので何かあったら是非呼んでください。
僕の高校フェンシング生活はこれで一つの区切りです。この3年間とっても早く感じました。未だに気持ちは一年生の頃のようですが、確実に成長した部分も実感しています。コロナ禍で部の運営、技術の向上などかなりハードなことばかりでしたが、やるべきことはやりきれたと信じています。そんな中でも先輩、後輩、同期に恵まれていたと思います。後輩のみんなは、無茶なことを言ってもついて来てくれてありがとう。同期のみんなも一緒に戦ってくれてありがとう、楽しかったです。チームメイト並びに支えて下さった保護者・コーチの方々。3年間親身になって、僕がうざがってもしつこいくらい本気になって育て続けて下さった小林コーチ。スポーツの面白さを厳しく、優しく、とことん教えて下さり、成長させて下さった澤田監督には本当に感謝してもしきれません。3年間本当にありがとうございました。
とのことです。全然、試合には勝てず、自分なりに本気で全力でフェンシングをしていたようなのですが、大学が濃密すぎて高校時代をあまり思い出せないというのが本音なんですよね。この文章を読むと目標と目的が大事とか言ってますから、結局大学で大事にしていたことと大差はなく大学の自分は確実に高校3年間の延長線上にいたのだなというのも自覚させられます。少なくとも自分が言えることは、高校時代の自分は結構目の前のことに必死に全力で生きていたらしいということと、チームのみんなを信じていなくてまるで一人で戦っている気分だったらしいということです。でも確かに、周囲の仲間たちの努力を見ようとできてなかったですし、自分のことでずっと精一杯でしたから一人のような気分だったのはあながち間違っておらず、後輩は高校時代の自分のことを真剣だったなどといってくれますが、副将としてやフルーレリーダーとしてのマネジメントは全くしておらず、自分勝手に自分のフェンシングをしていた男のような気がします。それが悪いことかどうかは諸説ありますが、中学時代に比べれば、「自分自身だけと向き合った」3年間だったように思います。フェンシングに関しても、メンタルやチームについても、すべて自分自身に対してだけ全力で向き合って日々全力であがいていた、そんな3年間でした。ここまで長かったですね、大したことは書いてないですし、正直自分がどれくらい必死だったかなんていまいち覚えていないものですが、チームというもの、仲間というものにコンプレックスを抱えた状態で引退したことは間違いありません。本気で自分と一緒に戦ってくれているのは澤田さんとさと子さんだけだとか思っていたっぽいので本当に周囲の努力を見えていなかったのです(本当に当時の同期・後輩たち、ごめんなさい)。
6月13日に引退してからはしばらく抜け殻の日々を漫然と過ごし、夏休みには友達と久しぶりに旅行に行ったりと、剣を持たない生活をずっとずっと続けて、そのまま大学に入学します。なぜ剣を全く持たなかったかというと、インターハイ予選個人・団体の時の自分の情熱を今後超えられる気がしないとずっと思っていて、大学でフェンシングを続ける覚悟も選択肢も自分の中にはなかったのです。ということでここからやっと大学編に入ります。ここから、ごちゃごちゃと入部から逃げる理由を記載しますが、結局大学で入部するうえできっと自分の中で生きている言葉があって、引退試合の日の負けた後に澤田さんから「5試合目のお前の全力の姿を忘れるなよ、どんなメンタルでどんな動きだったかを。」と言われたのと「SFCを見ればわかるけどチームで戦うとはああいうことだ、あれがチーム力で勝つということだ。」と全力で戦いながら全員がベンチから飛び出しているSFCベンチを指して仰られて、その言葉だけは本当に忘れもしません。結局、まだ後悔が多くやり切れていないということだったのでしょうね。自分のフェンシングにだけ向き合っていた高校時代よりも、よりどうしようもない内容ですが、ここまで読んでくださった方はぜひお付き合いください。
大学編
澤田さんには「どうせ戸田はフェンシングを続ける」と思われていたようですが、引退後の自分は本当にフェンシングを大学でやるつもりはありませんでした。気持ちとしては高校引退のタイミングで結果は出なかったけれどやり切った思い(当時はそう思い込んでいたということです)でしたし、高校3年のインターハイ予選までの自分の情熱、必死さをどう考えても大学で超えられる気がしなかったのです。高校の時の自分を超えられないという直感をずっと感じていた自分はそんな生半可な気持ちであの怖い大学體育會フェンシング部に入部できるわけもないと確信し、逃げ続け、澤田さんに誘われた4月の学生カップももちろん出るはずもなくどのようにして新しい道を見つけようかということばかり考えていました。だいたいそんな思いの自分のそもそも頭のおかしかった行動はさと子さんに誘われて、こともあろうか、さとこさんと5人の現在の大学同期とで入学式の日に集合写真を撮っているのです。何故そんな入部確定演出の集合写真に入っているんだ戸田君、と今でも思いますが、そこにはいたのに6月初めまで入部しなかった自分のことをその時の同期は、なんなんあいつ、とさぞかし思っていたことでしょう。そんな感じではあったため、フェンシング部との関わりは高校のみであろうという想いで、一個下の代のインターハイ予選については全力で応援していて、道場にも足を運んでいましたが、大学には絶対に入部しないという謎の気概を見せた自分は、医学部であるから「全塾體育會は本当に厳しい」と自分に言い聞かせ続け、10個以上の医学部体育会の新歓に行ってみたり、かるたサークルとか、珈琲サークルとか、天文研究会とか行って、いろいろ入会しましたよ(あまり人には言ってないですけどね)。医学部体育会の空手部にも馬術部にも入部し、サークルも多分2個くらい入ったのではと記憶していますが、ほぼすべて入会するだけして参加回数は0回か1回で辞めました。馬があわなかったんですねえ、きっと。まあ、今となってはただ逃げているだけの行動ですが、それくらいフェンシングをやるつもりは自分の中でなかったということです。余談ですが、もしそこでフェンシング部に入らない選択があって、生まれ変わったらどうするといわれたら、ダンスサークルのJADEか體育會應援指導部に入部したいと思っています。人の応援をするのってとても楽しくないですか、知らねえよって感じですよね、すみません。
そんなこんなで逃げていたのですが、高校フェンシング部には顔を見せ続けていて6月の1日あたりにあったインターハイ予選までは本当にただの卒業生として応援していて、確かその試合の前日の高校の全体集合に出させてもらって偉そうに、人を信じ、自分を信じることができればインターハイ予選、必ず勝てると熱弁したような記憶があります。自分はその日に試合に向かう1個下を見て、当時の大学主将に自分も覚悟を決めたので入部させてくださいと連絡し、彼らの試合当日が最初の練習だったような気がします。記憶違いだったらすみません。そして、道具の無い自分は彼らのインターハイ予選の日に商会に行って、そこから日吉に向かう電車の中で4-5で横浜商大に敗北する姿を見て一人で泣きました。やる気満々の後輩たちには本当に勝ってほしかったのですよ。こんな感じで入部が遅かったのは全く覚悟が決まらなかったという自分の弱さから、入部の理由はやっぱり澤田さんとさと子さんへの恩返しが終わっていないから?だったのですかね。でもよく考えると、入学式であの写真を撮っている時点で、きっとどこか自分の中でフェンシング部に入ることを決めていて、往生際が悪かっただけだと思います。高校で出会った大親友にも「ごちゃごちゃ言ってたけどどうせお前はフェンシング部に入ると思っていたよ」と最近になって曝露されましたし。ただ、リーグ戦にいなかったのは本当に申し訳ないと思っております。改めてご迷惑をおかけした多くの方々に心より謝罪申し上げます。ここで示しておきますが、入部した経緯は置いといて、自分がここからフェンシングをやり続ける目的・原動力は「澤田さん・さとこさんをはじめとするお世話になった慶應フェンシング部への恩返し」と「一生の仲間と最高の瞬間を」というところになります。
大学一年生編
そんなこんなで入部しましたがフェンシングに対するスタンスは高校3年間とあまり変わらず、当時の主将を筆頭に強くてかっこいい先輩ばかりでしたから、それにひたすら甘えて、いろいろな方からたくさん教えていただき、自分のフェンシングに集中して向き合っていた1年間だったと思います。その主将は1年生の時に、「1年生はいてくれるだけで雰囲気を変えるから」と仰っていましたが、そんなこと仰るなら、自分はとにかく先輩たちに食らいつこうと日々フェンシングに集中できていました。もちろん普段の練習では驚くほど勝てなかったですが、ノンプレッシャーでやりたい放題できて楽しかった気がしています。下級生仕事とかをしっかりとやっていましたかといわれたらそれはNOなんですがね。毎日毎日、真剣に練習をして秋シーズンになり、慶関慶同戦やカンカレを経て、その時は「結果を出している先輩方凄いなあ、そのうち自分もあんな感じで結果が出るといいなあ」くらいに甘い考えを持っていた気がします。そんな感じで、誰よりも努力をして背中を見せ結果を出した、当時の主将を見ていた自分は最高のチームで悠々自適にフェンシングをさせていただき、その代の引退となる慶早戦を迎えました。
この時の慶早戦は一生忘れられないと思います。決起集会で、「高い高い山の山頂を取りに行こう」と仰っていた主将の言葉は今も忘れていません。男子エペ、女子エペ、女子サーブルが勝ち、3勝2敗で最後の男子フルーレにまわってきて、指数を考えると男子フルーレが勝つしか総合優勝の道は無い状況。その年は何回か早稲田と当たっているが毎回大敗していて、飯村君がいても厳しいだろうという状況の試合でした。結果は45対39で本塾の優勝でしたが、あの時のチームの一体感や選手の格好良さ、憧れ、はその後の自分のフェンシング人生で追いかけ続けたものだと思います(きっと未だにあの時の試合を時々、見返している人も少なくないのでは)。チーム全員が選手を信じて、それに選手も応えて、全員で応援しながら号泣して、あの時のチーム名は「一丸のフルーレ」、スローガンは「全力は伝播する」。あの感動はここではうまく説明できませんからぜひセルフマネジメントの神である当時の主将に直接述べて頂きたいところではありますが、4年生全員の全力がチーム全体に伝播したからこその総合優勝でした。あんなに最高の慶早戦は奇跡です、自分の代の慶早戦でそれを超えようと密かに思っていましたが、ぎりぎり超えられなかったかなあという所感です。その翌週の納会でよくわからないお話を30分にわたり繰り広げてくださったところまで含め大変尊敬しております。さすがに30分は自分も話さないです。
ね、長谷山さん。ただその自分にとっての伝説がその後の自分の行動の原点にあったのは間違いありません。自分は4年間その背中を追いかけ続けましたし、フルーレリーダーになった最後の年も、そんな長谷山さんに褒められるようなマネジメントをしたわけではなく、ただ貴方のまねっこをしていただけです。本当にありがとうございます。これで4年生は引退し、次の代に交代します。ちなみに、この慶早戦でうちの金メダリストに言われた、「3.4年の時は一緒に出るからな」という言葉は自分の原動力でもあり、呪いでもありましたね。いやあ、普通にまあ、呪いだよね。
大学二年生編
ここからの自分はなかなかに暗黒時代で、2年生から3年生にかけて様々なやらかしやサボりを行っていきますから、触れるものと触れないものがあるかと思いますが、温かい目で読んでいただけますと幸いです。ちなみに恋愛については触れない方針です。ここからも淡々と練習は過ぎていったわけですが、この年からコロナがあけて、合宿が再開されるということで春合宿が開催されました。自分は2月から3月にかけて解剖実習だったため、さすがに合宿参加は無理かと、これはこれで非常に悔しい思いをしました。高校の時よりはいろいろと考えていましたので、大学合宿の重要性というものは本当によく理解していたつもりではありますが、自分とたくさん相談して、今回だけは、と断念しました。合宿と重なっていたけれど、実習の無かった土日は、「1泊2日だと正直体力的に厳しい」とか言い訳してないで、黙って行けよと今となっては思うので後悔しています。
ここで少し別の話を挟みます。まあ、出来れば飛ばして頂いて、自分にとって、「医学部とは、肩書きとは、」ということについてです。医学部の話は極力しないようにしていましたし、弱さを見せまくった自分でもそこの弱さだけはとにかく見せたくなかったので書くか迷いましたか、最後なので書きます。すごく感じの悪い文章になったらすみません。多くの方から「全塾體育會と医学部を両立していて、文武両道で凄い」と、何度言われたことかわかりませんが自分としては慶應義塾大学医学部というものと慶應義塾體育會というもののブランド力と肩書きのパワーに最近になってやっと自覚出来てきたつもりです。ただ自分の中での優先順位として、大学4年間では間違いなくダントツでフェンシング部が1番、かなり下がって次点が医学部での勉強でした。ですが、フェンシング部に対しては、医学部の実習なり授業なりで他の部員よりも参加できていないという点で劣等感を感じていましたし、医学部生という点でいうと社会が凄いと思っているよりも自分は医学部の授業に真剣ではないし、何かを成したわけではなくただ医学部にいるだけの人ですから何も凄くないと、何も社会貢献はしていないと思っています。なので、文武両道で凄いと言われる度に自分の劣等感を刺激され、どっちつかずの中途半端な奴だと自分を認識してしまうのです。
少しネガティブで卑屈すぎるなと我ながら思います。医学部という自分の肩書きに自分の行動が合致していないため、相応しくないと思っている自分は、その肩書きをなるべく使いたくなかったですし、それを部活に参加できない言い訳にするのが一番嫌だったので、なるべく自分は医学部生ではなく他の同期と同じ環境であると思い込むようにしていました。だから特に4年生になってからは試験で練習を休むかどうかは毎回毎回本当に苦しい選択を迫られていましたよ。この肩書きの話は後述の「副将」という自分の肩書きにも繋がるわけですが、自分が副将になった後、その肩書きに相応しくないと思っていた自分はなるべく「副将」ではなく、「4年生の一人」であると自分を表現するように意識していました。何かの肩書き「であること」よりもその肩書きで何を「するか」、何を「成すか」が本質なわけで、何も成していない自分はその肩書きに名前負けしていたわけです。ですからこれからは胸を張って「医学部生」と名乗れるような行動を心がけたいですね。このパートはフェンシング部で医学部の後輩君以外は読まなかったことにして下さい。
そして解剖実習が終わり、練習に帰ってみると同期がそれはそれは強くなっていて、本当に焦りましたし、悔しかったですし、それでも言い訳は出来ないしということで悩みました。2年生になり、一般教養ではなく医学の授業が本格的に始まり、2年生は結構勉強が大変だったのですが、その時は少ないなりにも自分の中での医学部の勉強における重みは比較的あって、今考えると全くフェンシング部に集中できていない日々を繰り返していたような気がします。自分にとって最も重要なものはなんなのかということをしっかりと理解できず、部活をしている目標や目的もあやふやになり、漫然と日々を過ごしていたのかもしれません。それこそ、「練習で何を得るかではなく、練習をしている自分が偉い」と錯覚して、練習をしているフリをしていたのだと思います。2年生の5月のリーグ戦では、ぎりぎりのところで専修大学に勝って、なんとかチームとしては1部残留を果たしましたが、自分としてはリーグ戦というものの重みを理解したのも、死に物狂いで残留しようとしている先輩方の姿を見てやっと理解できただけで、それまでは全く分かってなくて練習していたみたいです。その時のリーグ戦ですね、一番強かった法政大学との試合に出して頂いたのですが、自分が全く中途半端な動きをして、相手が強かったにしても、覇気がなかったため、澤田さんに「殺す気のないフェンシングをするな。ピストに立っているのに必死に相手を突くという想いが全くない。こういうチャンスをもらった時にいかにものにできるかが大事なのにお前は何もわかっていない。」といつも優しい澤田さんから本気で叱っていただいて、本当に自分はしょうもない人間だなと思いました。でも自分の心の持ち様は全く変わらず、漫然とした練習を続けてしまっていたような気がします。
当時のフルーレでミーティングをしたときに、シーズンの個人目標を共有しようという話で、自分は恥ずかしげもなく、「自分が4年になったときのリーグ戦で優勝することしか考えていません」とか声高らかに発言した気もしますが、その時のチームメイトからしたら、行動も伴ってないのになにいってんだろうなあこいつって感じだったことかと思います。ただ夢を語っていたのでしょうね。その年のフェンシングはそんな感じです。ここからは結果も出せず、フェンシングに全く集中していない自分が、チームに口出しをして居場所を失っていきます。
2年生の秋頃ですね、自分は体育会本部のLEAPというプログラムを2週間にかけて受けて、リーダーシップとマネジメントとは何かということと、それを実践するにはどうすればいいかということを学んだのですが、その時の自分は「腐敗したフェンシング部を立て直すリーダーになる」とかいうなんとも凄いことをメモとして残しています。お前マジで何様やねん。頭おかしいんちゃうかと思いますが、きっとコロナ前の厳格さを取り戻したかったのではないでしょうか。古き良き時代好きです。こんなことを綴りながら本当にこんな文章、引退ブログで記していいのだろうかと不安に駆られておりますが挫けず書きます。本当に不器用な自分は、きっと同期に無意識のうちに、自分ができていないことを棚に上げて正論を振りかざしていたのではないかと記憶しています。自分としては自分はやった気になっていて、他の人の頑張りが見えていなくて、主に同期なんですかね、マネージャーやプレーヤーにたくさん不満を持っていたのだと思います。そもそも自分のキャラクターがそういう正論をかざす、きつい性格の人みたいな感じだったので、そういうのもあって、自分が言ったことも、言っていないことも、そして信頼していると思った人に言っていたことも変な形で広まっていたり、正直わけがわからなくなって、その時の同期の不和の雰囲気の全ては自分のせいのような気がしながら、同期もきっとそう思っていたのだと思います。不器用な自分は同期にきつくあたってしまうし、でも同期は好きでしたし、人に嫌われるのは怖いし、正直、人間不信になって本当に部活を辞めようかと思いました。今になっても多くの人に自己開示をできず、なぜか壁を作ってしまう性格なのはこの時の名残かもしれません。その時はいろんな人のことを信じられなくなって、本当に自分のチームにおける存在意義もわからなくなり、いろんな同期と鬱陶しがられながらも話をしたのではないかなと思います。マネージャー3人と俺で話した会とか本当にやばかったと思います、ごめんなさい。
そんな感じで、部活に行きたくないし、行けないし、インカレにも自分は出場できないし、他の高校からの同期は何人かインカレに行って結果を出しているのに自分はなんて情けなかったのだろうと思います。そんなときですね、インカレ中の夜練の後にエペの同期と夜ごはんに行ったのですが、そいつらが本当にいいやつで、戸田のことを否定するどころか、チームを大事にしたいという自分の在り方を笑って認めてくれて、その時はかなり救われたような記憶があります。やっぱりいざという時の戸田のコンサルタントは坂藤君ということになりますね。やはり人の心しかないね、こいつ。そんなこんなで部活を辞めるという選択はせず、図々しくもフェンシングを続けていたわけですが、時間が経っていくうちにこの時の揉め事も徐々に風化されていって、コーチ、同期、先輩、後輩の多くの仲間に話をたくさん聞いてもらって、支えてもらって、「自分のことを見てくれている人が一人でもいる限りはフェンシングを続けよう」と思い、なんとか代替わりとなりました。
大学三年生編
ここからは自分も上級生ということで、強かった先輩たちも抜けたので今まで以上にシビアに団体メンバーを目指すようになり、春の慶関慶同戦に出たいという想いで久しぶりにフェンシングに集中出来た春だったと思います。もちろん総当たりとか合宿とかは嫌でしたけど、充実した春だったのかなと思うくらいここに書くことが無いです。残念ながら慶関慶同戦にはインフルエンザで出してもらえず、コーチから「お前は本当にチャンスを逃すタイミングだけは的確だよな」と笑われたような気もしますね。本当にそう思います。そして、3年になり、春のリーグ戦を迎え、この時はもう1部降格は絶対にできないという当事者意識は芽生えていましたから、自分が出場する、しないに関係なく、とても緊張し、悩みながらリーグ戦を迎え、スタメンではなかったですが、チームが早稲田に勝って1部に残れた時は安心したと思います。後輩にメンバーを抜かされ、複雑な思いももちろんありましたが。
このリーグ戦のあと、ある男が帰ってきます。今となっては二人三脚で組織とフェンシングのことを悩み、戸田の支えとなってくれた男です。そこまで罪悪感を抱く必要はないだろってくらい、2年間部活にいなかったことを謝ってきましたが、別にそんなに気にしなくていいよと自分は言いつつも、別に許しません。そう、小西君です。いや、遅え。そんな冗談はさておき、彼が部活に帰ってきて、確実に練習の雰囲気は変わりました。この男の存在感凄いなと毎練習感じさせられながら、一緒に真剣に練習していました。この時は、そんなに自分をいい方向に引っ張ってくれた男と奇しくも周囲の人間を中心に幹部決めで戦わされる破目になるとは思いもしませんでした。そんなこんなでリーグ戦は1部に残り、夏合宿を迎えます。忘れもしない本当に本当に辛かった夏合宿です。あの時の自分から出る負のオーラを感じ取った部員も少なくないかと思います。
自分としては、やっと自分がやりたいビジョンを仕切りという形で少しやれるということで、メニューから方針まで同期と相談したり自分でも考えて、まあ少し基礎練がフルーレはきつすぎたり、いろいろと自分は出しゃばり過ぎたとは思いますけれど、やりたいことをやることができた合宿でした(温かく見守ってくださっていた4年生には感謝しかありません)。練習内容に関しては、かなり濃密なものでしたし、自分としてもかなりフェンシングでは成長できた合宿だったと思っています。そんな感じで結構な覚悟で挑んだ合宿で、仕切りも気合入っていて悪くなかったんじゃないかなあなんて思っていたわけですが、その合宿の最後のタイミングで幹部決めミーティングの第一回を行ったわけです。
正直、1年前に同期とは水面下でもめていますから、きっとこんなに尖っていて「話ができない」戸田拓海という人間は同期にとって良い印象ではないのだろうなと思いながら、主将か副将か、とにかく幹部として、自分のビジョンを来年実現したいなくらいに考えて、同期に否定されるのを怖がりながらミーティングに参加しました。その結果、想定していた以上に自分は「リーダーとして不適格」という意見を目の前で大量に突き付けられました。正直、とても苦しかったですが、まあそこまでの自分の言動を考えれば人望が無いのも仕方がないなと今は冷静に思います。いやあ、しんどかったですけれど、あそこまで正直に自分を真っ向から否定してくれた同期には感謝ですね。なかなか正面切って、自分の否定をしてくれる人っていないと思いますから、それだけ真剣に否定してくれるっていうのは逆に自分をよく分かってくれているのかもしれません。正直、ミーティングの内容は自分にとってはキツ過ぎる内容でしたから誰が何を言ったとかの詳細は覚えていないですが(約2名覚えております)、その後ある同期と二人で足湯に2時間近く行ったことは覚えています。後輩曰く、「今はやばいから足湯とコンビニには近づくなと」と恐れられていたらしいですけれども、その足湯でも来年のチームビジョンについてとか、ミーティング内容がどうだったかとか、それはそれは本当に建設的で的確で、感情的にもなりながら議論して、その時にその同期とは認識一致をほぼできたような気がします。そこで二人で話した延長線上に、1年後のフルーレチームがあると思うと、あれが自分のマネジメントのスタート地点なのかもしれません。感慨深いですね。忘れもしない日です。そんなこんなで、夏合宿も最終練習を迎えて、そのあとの夜のBBQでは自分はどんな気持ちだったか分からないですけれど、いや、もうぶっ壊れたようにはしゃいでいた気もしますね。その後は宿の前で一人で落ち込んでいる自分を慰めてくれる後輩や同期と話したり、朝まで同期数人で部活について話したり、しんどかったですけれど、将来のことを考えると良い話ができた夜だったような気もします。
などと言いつつ、実際に日吉に帰ってからの日々は、自分の想いが思った以上に自分勝手で人から否定されているものだと考えると辛く、部活を継続するのが本当に辛いと思う日々でした。いろんな先輩に話を聞いて頂いたり、後輩と話したり、かなり荒れた日々だったように記憶していますが、そういう弱さ含めて自分の言動が様々な点で至らなかったのだろうなと感じています。そこからはカンカレやインカレもありましたが、正直フェンシングの記憶よりも幹部決めの記憶が強く、あまりフェンシングに集中できていなかったのではと思いますが、自分と小西君の二人は本当にいろいろなことを言われ、きっと彼もかなりしんどかったとは思います。たくさんのミーティングを経て、後輩やフルーレ陣の意見を聞いて小西君でリーダーが決まった時もあれば、同期の意見が変わって戸田でリーダーが決まった時もあったりと本当に行ったり来たりの様々な議論をしましたが、最終的にはフルーレリーダーは自分ということで決定しました。あの2か月は今思い出しても辛いので、小西君と二人で将来笑い話にしようと思います。そろそろ終わりたいところではありますが、最後の1年間の濃密さを考えるとまだ終われないようです。ここまで読んでくださっている方は多くはないと思いますが、まだまだ執筆させていただきます。因みにここまで読んでくださっているあなたは時間が有り余っている勝ち組か戸田君のことが結構好きかの2択ですよ。ドンマイ。
リーダー論とチーム論(あくまで自論です)
ということで、ここで自分がフルーレリーダーを拝命したときにどんなことを考えていたかを記したいと思います。フルーレリーダーという役職になったことは自分にとってはもちろんゴールではなく、その立場の上で今まで自分が思い描いていたビジョンをいかに現実にしていくかということが重要で、チームマネジメントという点では完全にスタート地点に立ったに過ぎないのです(何回か話していますけれど、ある首相とある首相が当選したときの表情の違いはリーダーというものの捉え方をよく示していて、リーダーとはゴールではなく、誰よりも孤独で苦しい道のスタート地点なのです。こんな言い方をしてはいけないですけれど、管理職は捉え方によっては「罰ゲーム」なのかもしれませんね)。リーダーになったものの、フェンシングの能力が自分よりはるかに上の同期や人間力が自分よりはるかに高くいろいろな人からの人望がある同期などを差し置いて自分がフルーレリーダーをやるということは自分にとって本当に重い責任のあることで、自分でいいのだろうか、もっと適任はいるよなと何度も自問自答しました。その後の1年間も「実力が伴わず、口だけのリーダー」になってしまっている自分が本当に嫌で、他の人に言っている分、自分はより結果に執着していたつもりではありましたが、これは自分の中でそう思っているつもりに過ぎなかった気もします。そんな自分自身の言動と肩書きとのギャップに劣等感を感じ続けながらも、リーダーをやるとなった以上、自分にしかできない強みをリーダーとして発揮して、チームに還元していくしかないと思っていました。
それでは、慶應フェンシング部の中で自分が誰にも負けないことはなんだろう、戸田がリーダーとして出せる色は何だろう、自分にしかできないことは何だろう、と何度も何度も考えて、戸田がリーダーで良かったと将来なるのであれば、それは戸田拓海にしかできないことを存分に発揮したときだろうと思っていました。その答えこそが「愛」だったのですね。「何を言っているんだこいつは」と笑っていただいて大丈夫です。個人的には慶應フェンシング部の多くの方々に自分はよく「見て頂いた」と思っています。自分がとてもしんどかった時にでも辞めずに継続できたのはそんな自分の味方であり続けてくれる、自分の弱さを許してくれる、多くの監督、コーチ、先輩、同期、後輩がいたからであり、そんな多くの人からの支えを頂きました。だからこそ、リーダーとして自分にしかできないことは、部員全員をしっかりと見て、向き合い続けることだろうと思います。少し偉そうなようにも思いますが、部員一人一人が苦しい時に、戸田拓海という人間がいるからもう少し頑張りたいと思ってもらえるような存在になりたくて、リーダーとして「部員と向き合って部員を愛すること」こそが自分にしかできないリーダーシップ&マネジメントであると信じることにしました。そして自分自身が誰かにとっての「見てくれている」対象になれたら、それ以上に幸せなことはないと。
もう一点、自分にしかできないという点でいうと、自分もそう思いますし、周囲もそれを自分に求めていたようですが、「嫌われるリーダー」になるという点でしょうか。ありきたりな言い回しではありますが、組織をよりよくするためには上級生が同期や下級生に叱ることは必要不可欠であり、必要悪なわけです。「組織をまとめるなら共通の敵を作れ」ってどこかで聞いたことありますよね。もちろん自分はリーダーとして、部員が言われたくないようなことを指摘するという点で非常に厳しいことを、自分ができていないにも拘わらずフルーレのメンバーを筆頭に多くの部員に言っていたと思います。自分も人間ですから、人の悪意にさらされるのは得意ではないし、人に嫌われるのは本当にしんどいです。さらに言うと、部員に嫌われたとしても自分は部員を愛し続けなくてはいけないという個人的な約束を自分と交わしていましたから、部員への一方的な片想いというのはなんとも苦しい時もありました。こんな感じで悪役をやろうと思ってはいましたが、今となってはそんなに嫌われてないのでは?なんて思ってしまうので、きっと部員のみんなの心が広かったのでしょうね。もう少し詳しくはまた後述します。
それから、自分がリーダーをやるうえで絶対に譲れなかったことは「大学4年間のうちの1年間という貴重な時間を自分がマネジメントする環境で過ごしてくれる部員に対して、その時間が無駄であったり、成長できない環境であったりということは部員にとって非常に失礼であるからそれだけはしないようにしよう」ということです。これだけは絶対に譲れませんし、1年間常に念頭に置いていました。部員個人個人に部活をやる理由はあると思いますが、フェンシング部に身を置かず、勉強やサークル活動などなどそれ以外のあらゆる選択肢がある大学生の貴重な時間を頂いているのならば、「1年間最高だった、フェンシング部で今年チームの一員になれて本当に良かった」と思ってもらえないとリーダーとしては失格なわけです。
それでは、良いチームとは何でしょうか。その答えを自分はまだ言語化できずにいますけれどここでは3つ挙げておきます。一つ目は個人とチームでそれぞれ目標と目的が明確な組織であることだと思います。今年のチームでいえば、多くの人から応援されるチームになることを目的とし(この目的の部分は人によって少し違うと思いますから結局明確にはできなかったのかな)、慶早戦総合優勝を目標とするチームだったかと思います。フルーレチームでいうと、代交代直後に同期と考えていたチーム目標は男子がリーグ戦1部優勝、女子がリーグ戦1部昇格、慶早戦フルーレ男女優勝、個人戦だと男子は学生の試合でベスト32に当たり前のように入るチームにしようと考えていました。この時はまだ、カンカレ、インカレはイメージしていなかったように思います。組織において、目標と目的を明確にし、やり方は違えど最終的に向いている方向は同じということは人一人では成せないことを成すうえで、必要不可欠なわけです。もう一度言いますよ、人一人では成せない奇跡を起こすことができるのが組織の潜在能力と可能性なのです。
二つ目は組織の内部外部関係なく応援したいと思えるということはどういうことかをしっかりと考えるべきであるということです。過去の自分は、體育會にも拘わらず、団体戦の応援に行かないのはあり得ないと考えて、同期や後輩に応援を強制しようと思っていましたが、当たり前のことで、応援というものは強制されていくものではありません。こんなことを自分が言う日が来るとは驚愕ですね。體育會として、厳しさとして、ルールとして応援に行くというのももちろん一種の正義であり、自分もそれを信じていましたが、ルールで応援に行かされるチームと、応援に行きたいと思って部員が応援に行くチームどちらの方が組織として健全でしょうか、組織として強いでしょうか。当たり前ですが、後者の方が強いチームですし、自分も4年生になるまでそんな当たり前に気づけなかったわけです。では応援したいと部員同士が思えるためにはどのようにすればいいでしょうか。これは非常に言語化するのが難しい命題ではありますが、相手のことをより知るところから始めるしかないですね。まずは仲間のことを知るための機会を作る、そして話していたり、見ているうちにその仲間の知らない努力や苦労を知って、その人のことを好きになったとき応援したくなるのではないでしょうか。チームの中での個人と個人の関係性にまでは自分は口出しできませんから、応援したいと部員同士思えるために組織として提供できるのは、仲間のことを知る機会を作ることです。機会提供の仕方なんていくらでもあると思いますから、知らない部分を知るための一歩のハードルが低い組織こそ応援にあふれるチームになるのではなどと考えています。そんな環境を作るのが上級生の仕事です。
三つ目は役割が明確化している組織がいいチームの要素であると考えます。部員には日々、「自分がいたからこそ、この組織は目標達成をすることができるのだ」と胸を張って言えるくらい何か誰にも負けないスペシャリティを持ってほしいと伝えていましたね。そうです、ある日の集合でいった『国宝』の話もつまるところ、なんでもいいから一個、悪魔はんと契約したスペシャリティを持ってほしいということです。例えば、チームの目標を達成するために15個の要素があるとします。その要素について、各自が自分はこの要素については〇点だと、5点評価くらいで点数をつけてください。そうすると、もちろん戸田一人では15項目全てを5点満点にすることは出来ず、いいとこ2項目くらいが5点になったらいいなあくらいです。ですが、チームメイトが20人、66人もいれば各要素について強い人間が絶対にいるはずで、その部分については、戸田は出しゃばらずにその人に完全に頼りきってしまえばいいわけです。そうやって個人個人に役割があり、全員合わせると各項目について5点満点になるというチームが最高のチームです。定期試験じゃないんですから、一人で満点を取る必要はないのです。言うなれば、20人でセンター試験を全科目満点とることを目指したら、得意科目ごとに分担しますよね。実際のセンター試験では全科目一人で解かなくてはならないですけれど、組織は違いますよね。まあ、「お前、センター受けてない内部なんだから黙れよ」と言われればもちろん黙ります。すみません。とにかく最高のチームは、一人一人が全力であった結果、全項目満点になったチームなのだと自分は思っています。
最終学年編
そして、副将を拝命し、最高学年になります。上手くいったことと上手くいかなかったこととたくさんありますが、チームの目標を達成するために練習メニューやミーティングの在り方、チームに対する様々な施策など新しいことをたくさんしようとしました。一回一回の練習を大事にして、後輩のいざこざで同期と悩むときもありましたし、フルーレのみんなで遊びに行ったり、本当にいろいろな楽しいことをして、充実した日々だったと思います。冬から春にかけては、本当に命がけで死に物狂いでリーグ戦のことだけを考えていたのではないでしょうか。4年生は環境を良くも悪くも変えることができますから、団体戦でも個人戦でもチームのみんなの結果に対して勝ったらみんなのおかげ、負けたら4年生のせいなわけです。だからこそ春シーズンにみんなで結果を出さないといけないと、今まで以上に思っておりました。3月には自分が副将として迎える初めての春合宿がありました。いろいろとメニューから仕切り方、全体でどうするかなどなど考えていて、自分としてはかなり気合いが入っていたかと思います。まあ、山中湖ランニングはやらない方がよかったのかなと今となっては思います。ごめんなさい。自分は主犯ですが実は本物の主犯は自分ではありませんよ。それでも、練習内容でいうとチームメイトのパフォーマンスもかなり素晴らしく、切磋琢磨を体現しているような合宿だったと思うので、本当にみんなよく頑張っていました。本当に充実した合宿だった気がします。あとは、宿が比較的良く、種目性別関係なく多くの人とコミュニケーションをとることができる環境だったこともとても素晴らしく、自分なんてある後輩と次の日練習があるのに夜中3時くらいまで話し込んでいた気がします。きっとよくある戸田の気まぐれで話し込んでしまったけれど、よく考えなくても早く寝ないとダメですよね。すみません。でもこの気まぐれがただの気まぐれで済まないんだから戸田は最後まで見てますよ。自分の言動には責任を取りましょう、戸田さん。本当に。雪で寒すぎて、頭痛に悩まされたこと以外は満点近い合宿で全員の技術力も組織力も上がったのではないでしょうか。
そんなこんなで、春シーズンの試合が始まるわけですが、個人でも団体でも大した結果を残すことができなかった自分は「やっぱり自分のフェンシングと向き合いきれてないなあ」と思ったわけで、学生カップで全日本選手権への権利に全く届かなかったときはさすがにかなり凹みました。その後の主将の大活躍も含め、やっぱり自分は足りないなあと思っていると、リーグ戦直前にも拘わらず、そこまでの張りつめていた糸が切れそうにもなりましたが、ある後輩から「我々の目指している場所はそこではないでしょ」と叱責され、しっかりリーグ戦に向けて走り切れたので本当にその時の後輩ちゃんには感謝しています。そして、リーグ戦を迎えますが、その時の文章があるので以下添付しておきます。
リーグ戦直前日記2025/05/07
明日からリーグ戦、深夜で本当は寝ないといけないけれど、一生残ると思うので、急いでこれを書くこととします。
まずは、過去の話をしよう。ここまでの丸三年間、一番最初に入部したときは、高校の時のインターハイの悔しさを胸に、大学に入り、団体で、自分の代でリーグ戦優勝するという途方もない夢を抱いていて、それを恐れ多くも先輩方の前で言っていた。そこから、2年前のリーグ戦、最下位をのがれるための最期の専修大学との団体戦、余裕だと思っていたものが本当に苦しい戦いになってしまった。そして、1年前、早稲田にぎりぎりで勝って、なんとか1部に残れた。毎年1部5位で、慶應フルーレはいつも一部を守る戦いをさせられていて、自分が抱いていたものが大いなる夢だったのだと気づき、その遠さに嘆いた。そして、12月から自分の代にやっとなり、自分のやりたいチームメイキングと、フェンシングに向き合うということの両方を全力でできるようになった。12月は新しいチームとして、出発し、自分の最上級生としての在り方に慣れる時間。1月はチームの絆を深めて、個人としてフェンシングに強く向き合った。2月は、今までで一番フェンシングとチームだけに本気で向き合えた自由な時間。3月はその結果がうまくついてこなくて嘆きながら、少し悲しみながら、慶應チームの絆に向き合えた時間。4月は迫りくる試合のプレッシャーを感じながら、苦しみ、そして自分と戦い続けた。そして、5月、個人としてやるべきことがもっとあったと思う。もっともっとフェンシングと向き合えたと思う。けれど、今の自分のフェンシングはここなのだからそれを受け入れて明日自信を持ってやるしかない。チームとは向き合った。本当にいいメンバーに恵まれた、自分はこのチームが最高のチームだと信じている。さあ5月、結果を出す5月にする。
自分にとってのリーグ戦の位置づけはそんなところ、一部残留をかけて、本気で恐怖する自分だったのが、今では優勝をとると豪語している。本当に楽しみだ。自分にとって、特別な意味をもつリーグ戦、人生で3回目のメンバーとして迎えるリーグ戦、今年は男子優勝、女子昇格を必ずする。自分の代のリーグ戦はそういうものにする。自分は最初はリザーブとして、心はできていなかったが今はもう心は決まった。誰がどのような状態になっても自分はチームの目標達成のために、気持ちを入れて、力を抜いて、全力でフェンシングをする。言い訳はしない。覚悟を決めて、情熱をぶつけ、躍進する。
自分のここまでの半年間のマネジメントとフェンシングについても書こう。我々は、フェンサーとしてと、慶應の部員としての二つの役割がある。フェンサーとしての自分はまだ自分と向き合い切れていない、頑張っているように見えているだけだと思う。いろいろなアドバイスややるべきことに対して、実行を完全にはできてないからまだうまくなっていない。だけれどもそれは今はそういうものだ。4年生としてのマネジメントは、まず60人の部員全員がこの一年間、この大学でこのチームで過ごしてよかったと本気で思えるチーム作りをした。これはこれからもやり続けるが、みんなの貴重な一年を自分はマネジメントさせていただいているのだから、自分はそれに全力で応えて、個人を最大限活躍できる、楽しい環境を作る。すべてをできているわけではないがフルーレの中では一つになれたと自分は思う。自分がリーダーをやっていいのか、自分は適任なのかという思いはずっと残っているがこれも自信を持ってやるしかない。
自分が4年でフルーレにいる上で、女子という視点をかなり強く取り入れた。女子はリーグ昇格を本気でやろうとしている。そのうえで、自分のできることは何か。彼女たちもフルーレチームで、男子だけを考えてはいけない。彼女たちを勝たせて、慶早戦を考えて、自分たちは応援する、そういったマネジメントを自分はできた。フルーレは男子女子関係なく、目標を成し遂げる。
フルーレのミーティングでみんなの思いを聞いた。(具体的な名前が出てくるので割愛)。こういう思いを本当に大切にしたいし、このようなチームにしてくれたみんなに感謝する。
リーグ戦がどんな結果になろうと、自分の1年間の役割は全く終わらない。部と向き合い続け、チームを勝たせるために動く。まずはリーグ戦が終わったあと、女子の面倒をしっかりと見ろ。戸田。絶対に息切れするな、一息つくのはいいけれど、目の前にある他のことすべてに目を向けて自分の役割を全うする。これだけは忘れてはいけない。
尊敬と感謝。
本当に部員皆に感謝している、こんなに素晴らしいチームを一緒に作ってくれてありがとう。それぞれのいいところを自分は尊敬し、感謝している。
またたくさん考える機会はあるだろう、まだ引退ではないし、ただとにかく今、リーグ戦にかける自分の思いはここである。自分の部への思いや愛、残したいものとかはまた引退の時に整理するとして、まずは明日、明後日、みんなで行こう。優勝を取りに。
熱いですねえ。こんなもん書いてないでさっさと寝ろと思いますけれど、結果としては男子は1部3位、女子は1部昇格。自分はリザーブではありましたが試合に出場することはなく悔しい思いもありましたが、男子が負けた1試合を除いて悔いなしだと思います。男子は中央大学に勝てた時は本当に嬉しかったですし、もちろん例年と違って1部降格の恐怖が少なかったことは身にしみて感じました。特に女子フルーレの1部昇格の瞬間、ぎりぎりの一本勝負を勝ち切ってくれたことは感謝してもしきれません。素晴らしい景色を見せてくれてありがとう。本当に良かったです。リーグ戦期間中でいうと、自分は男子フルーレの試合が終わった後にやらかしてしまったり(本当にごめんなさい)、男子サーブルが追い込まれたときや男子エペが1敗したとき、女子サーブルが入れ替え戦に行けなかったとき、女子エペが本当に苦しかった時などなど本当にたくさんの思い出があり、チーム全体通して苦しくも思い出深いリーグ戦だったのではないかなと思います。リーグ戦中にある部員を泣かせてしまったときは自分でもどう支えてあげればいいのだろうと悩んだ気がします。本気で悔しめる姿は本当に格好いいよね。
それからは抜け殻のような日々で、7月の長期オフを迎えるまではあまり覇気のある練習をしておらず、惰性で練習をしてしまっていたような気がします(直前の文章に「絶対に息切れするな」とか豪語しておいて息切れしてるやんっていう突っ込みはご容赦ください)。中日本選手権で数人以外ほとんどみんなボコボコにされた後に、こんな環境と結果にしてしまって、「お前のポリシーはどうなったんだよ」と自問自答し、でも行動できず、あの時は切り替えに苦しみましたが、後輩にはごめんなさいと本当に思います。そして、7月の長期オフを経て、8月ごろには完全に熱意が復活、合宿から慶早戦まで一気に走り抜けねばならないし、個人的には絶対に結果を出さなければならないというプレッシャーの日々でした。
夏合宿も自分の人生最後の現役としての合宿として、秋シーズンへのチームメイクの第一歩として、慶應高校含め約100人の大所帯でどのように運営しようかと、日々澤田さんと悩んでいました。非常に気合が入っていた分、不測の事態で十分に練習に参加できなかったり、途中帰宅をすることになったり、部員との時間をたくさん取れなかったことは非常に悔しかったです。しかも、自分がいなくなった後に同期でもめたらしく、本当に自分は大事な時に何してんだよと思いながら、自分の無力感を嘆いていました。あとは、本当にこんな状態から慶早戦を迎えて、組織としてまとまることは出来るのだろうかという不安がかなり強まりました。こんな個人的には不完全燃焼な合宿ではありましたが、ある後輩たちが「自分にとってはいい合宿だった」といっていた時は、嬉しかったですし、自分で抱え込みすぎなくても育っている後輩にもっと任せてしまえばいいなと思ったりもしました。合宿直後に後輩から「4年生大丈夫すか」とか言ってご飯に誘ってくれたのも本当にありがたかったですね。でもですね、そんな感じの合宿とその直後の島原シニアで全く上手くいかなかった自分としては本当にフェンシングが嫌になってしまい、引退3か月前なのにどこか燃えきれない状態でした。そういう時は大好きな先輩や部員と飲み会をして紛らわしていましたが、カンカレ2週間前くらいになって、「いやいや、今、そうなるのだけはお前違うだろ」と思い、必死になったのをよく覚えています。そこからはとにかくインカレに出場することだけを考えて、本当にインカレに行けなかったら自分のすべてが終わりという想いでカンカレの個人戦に臨みました。主将風に言うならDieですね。
カンカレ個人戦の当日、朝はなぜか1時間くらい早く試合会場につき、全く落ち着かず、おそらくとてつもなく怖い形相をしていたと思いますから、後輩はもちろん同期ですらほとんど話しかけてきませんでした。唯一、同期の主人公さんが「お前、緊張しすぎやろ。気楽にいこやー」とかいういつも通りふざけた関西弁で自分のことを茶化すもんですから、緊張も少しは和らいだのかもしれませんね。結果としては、結構いい動きができて、インカレには無事に行けて、本当に本当に嬉しかった記憶があります。高校1年生以来とかでフェンシングが楽しかったのではないでしょうか。おそらく本当に。その後の団体戦では明治大学にしっかりと負けてしまい、団体としては目標としていた優勝に全く届いていないですから駄目ですけれど、インカレ出場者がフルーレ男女で10人というのは本当に快挙で、「まるで強豪校になったなあ」と思いました。そして次の週は都シニア選手権、その次の週はインカレということで結構日程的に厳しかったですけれど、どちらもぼちぼち頑張れて、個人としては今までよりは少し結果が出てよかったなあと安心しました。特にインカレ個人戦のトーナメント1回戦は泣きながらフェンシングをしていましたけれど、そこにいた慶應の部員の多くが自分のことを応援してくれているような気がして、本当に力をもらって、みんなのおかげで1本勝負を勝てたのだと思います。個人戦なのに、こんなに応援の力を感じて、なんて温かい仲間たちなのだろうと心から思いました。個人戦は個人的には及第点でしたけれど、団体戦としてはこちらも目標には全く届かず、男女ともに厳しい結果を突き付けられ、その後もメンバー決めなどなど多くのことで揉めましたからフルーレチームとしてはまだまだ道半ばといった感じでした。それから11月には全日本選手権の団体戦があり、それもいろいろなものを背負って行った青森であったわけですが本当に苦しんでいた同期の覚悟と結果を見られて、嬉しかったですね。そんなこんなで怒涛の秋シーズンでしたが、本当に辛くも嬉しく、長くも短く、充実した日々でした。そうして、ついに引退である慶早戦だけを控える状況になります。自分としては、出場することが決まって、当日多くの人の前でフェンシングをしている自分の姿をイメージしては怖くなって、早稲田のフルーレ陣に勝っている自分もイメージできれば、ボコボコにされている自分もイメージして、いろんな人に格好良く見られたいなあとか余計なことも考えて、毎日毎日ぐるぐるぐるぐる慶早戦のことばかりを考えて、それはそれは苦しい日々でした。日に日になぜか、フェンシングが下手になる自分も不思議で、本当にメンタル状況は良くなかったのだと思います。そんなこんなで、ついに慶早戦当日を迎えるわけです。
と、その前に今の文章は個人としての秋シーズンです。しかし、副将としての慶早戦に向けた秋シーズンは違います。引退後だからこそ言いますが副将である自分にとって、本当に重要な試合はリーグ戦と慶早戦で勝つことだと思っていましたから、前述の文章を見て頂ければわかるようにカンカレ、インカレ、全日本選手権などの団体よりもリーグ戦と慶早戦のウェイトは高かったです。これは自分の考えであり、そうでない人もたくさんいますからこんなことは思ってはいけませんし、目の前の全ての試合をありのままに全力で、というのがもちろん正しいというのは分かっております。リーグ戦まではフルーレリーダーとしてフルーレのリーグで勝つことに執着していましたが、その後からは副将としていかに6種目で慶早戦を戦うかということを常に考えておりました。それは、今年の慶應義塾體育會フェンシング部が慶早戦総合優勝を成し遂げるためにあるチームでしたから、ある種正しいのかもしれませんし、自分の想いを勝手に他人に押し付けているようにも思います。そういうことで、「慶應義塾體育會フェンシング部の6種目で総合優勝を取るためにはどうすればいいか」ということを考え続けたわけですが、過去大幅に負け越している早稲田から総合優勝を奪還するなんてことは奇跡を3回くらい起こさないと不可能なことで、本当にどうしようかなあと悩んだわけです。男子3種目は各種目リーダーに任せておけば大丈夫というイメージがありましたから、男子としては男子フルーレで勝つことに必死でしたけれど、副将としては女子フルーレを絶対に勝たせなくてはならないとやはり思うわけです。
周囲の人には、女子フルーレ勝てないでしょうとか、厳しいでしょうとか、様々な無責任なお言葉を頂きましたけれど、自分のチームのあんなに気の強い女子たちをあまりなめるなよと思いながら、自分はきっと勝ってくれるんだろうと信じていました。結果論ではありますけれどね。必死にやっている1年生の後輩に「もっとできるはずなのに全然やっていない」と心無い言葉を何度かけて、何度心を壊したことかもわかりません。ごめんね。2年生の後輩と同期には、何時間説教したことかわかりません。戸田は無責任に勝ちたい勝ちたいと言って、どれだけプレッシャーをかけたことかわかりません。本当にごめんね。もう中目黒には行きません。本当は女子サーブルや女子エペについてももっと考えて、どうやって奇跡を起こすか考えたかったですが、自分ではそれがやりきれず申し訳ないです。ですがこれだけは胸を張って言えることがあります。それは、戸田拓海という人間は本気で慶早戦総合優勝を取るためにできることをやり続けたということです。これだけは誰にも否定させません。個人としてもですが、副将として、当事者意識を持ちすぎなくらい、1年間の目標である慶早戦にこだわり、試合当日の朝は本当に優勝できる状況にチームを完成させていました(じゃあなんで総合優勝してないんだよという突っ込みは受け付けません)。
そして、慶早戦の振り返りかと思いきやもう一点。7月のあるオフの日に水球部のある先輩と恵比寿に飲みに行って、「選手としてお前が頑張ることは当たり前。副将としてチームメイクするのも当たり前。それだけでとどまらず、慶早戦で日吉記念館を埋めたいくらいの夢を描けよ」などと、本当にたくさんのことを言われました。実は自分が2.3年生の時に、部活を継続するのが本当に苦しくなった時もこの方に「體育會は4年生をやらなければ意味がない」と何度も何度も言われ、絶対に辞めちゃだめだと何度も思わされましたけど、実際にそうでした。4年生をやらなければこんなに幸せな思いは出来ませんでしたから、やっと仰る意味が分かりました。中学時代から可愛がっていただきありがとうございました。話を戻して、その日の夜に恵比寿駅のホームで、ある後輩に「慶早戦をとんでもない規模で開催したいから一緒にやってほしい」と懇願した記憶があります。その理由は前述したと思いますが、こんなに頑張っている自分の大好きなチームメイトはもっと多くの人に応援される権利があるというところからです。そして、自分の目的である慶應義塾體育會フェンシング部への恩返しをするという想いにもピッタリのとてもいい機会だと、利己的にも思ったわけです。多くの人に慶應フェンシング部を知っていただいて、自分たちの全力の試合を見て頂いて、将来的に多くの人から応援されるチームになってほしいとおこがましくも思ってしまったのです。そこからすぐに活動を開始して、集客班と構成班に分かれて、毎月ミーティングをして、みんなにはそれまでの間に多くの準備を進めてもらって、戸田はただの言い出しただけで何もしていない人ではありましたから、みんなには申し訳なくありましたが、過去最高の慶早戦にしようとみんなが同じ方向を向いているのはよくよく感じました。本当にたくさんのお願いをして、自分のわがままに付き合わせてしまいましたけれど、最高の慶早戦にはなりました。本当にありがとう。ということで遂に2025年12月13日、第78回早慶対抗フェンシング競技定期戦大会、その当日を迎えます。高校の引退試合も忘れませんが、きっとこの日の記憶も一生、風化しないのでしょうね。いやあ、するわけないですよ。未だに思い出すと涙が出てきますもん。事前に書いた慶早戦にかける想いという文章がインスタグラムに載っていたと思いますが再掲します。
慶早戦にかける想い
平素より大変お世話になっております。慶應義塾體育會フェンシング部副将の戸田拓海です。
慶早戦とは、両校にとって「絶対に負けられない一日」である。三年前の慶早戦では劇的大勝利を収め、総合優勝を収めた。その日の勝利と感動は未だに鮮明に覚えており、そこには自分のフェンシング人生における原動力があり、自分の憧れがあった。しかし、その後の二年間は健闘の末、惜敗という慶應義塾にとって非常に悔しい結果であった。
リーグ戦やカンカレ、インカレといった団体戦は男女各種目でそれぞれ勝敗が決まる。もちろんチーム慶應として戦ってはいるが、勝敗決定の仕方という点では慶早戦は異色である。慶早戦では各種目の一点一点が最終的な結果に直接関わり、種目や性別関係なく慶應義塾體育會フェンシング部が勝利するか、敗北するかが決まる。つまり、その一年間のチームの全てが試される試合であり、両校の一年間の全力をぶつけ合う総力戦である。だからこそ、本年度の最初から掲げ続けているチームの目標は「慶早戦総合優勝」ただ一つである。
昨年十二月、目の前にはとてもとても高い山があった。一人一人が何故登るのかという目的を持ち、登頂するという目標を持ち一歩一歩日々前進して、山を登っていく。それでもずっと前を向いて歩み続けるのは難しく、途中で止まってしまったり、戻ったり、迂回したり、泣いたり笑ったり。どの道が正しく、どの方向に進めばいいのか、どうすればいいのか、いつになったら山頂は見えてくるのか。いろいろと考えて、これも違うあれも違うと試行して、時にはこの旅の目的や目標を失いそうになる。考え方や手段は個人個人違って、ゆっくり継続して登っていくのが上手い奴もいれば、時々ダッシュするのが上手い奴もいれば、皆に声をかけながら登る奴もいる。何から何まで、皆違って、皆面白い。けれど、目指している先は確実に同じだ。一年前には見えなかった山頂を六十六人全員で今、近くで見ている。いや、見えるところまで全力で、やっとの想いで歩んできた。あとは全員が同じ目標に向かって、最後の力を出し切るだけ。
慶早戦当日の慶應義塾體育會フェンシング部の在り方について述べるとすれば、選手・応援、全員が「今に滾れ」を胸にその瞬間を全力で生きる。そうしていたら、終わった頃には全力は伝播して必ず総合優勝が手の中にある。自分自身はどんな状況でも自分とチームを絶対に信じ、チームもまた個人個人を信じ切る。そんな一日になるに違いない。
戸田拓海という人間の七年間の慶應フェンシング人生の最後の試合、部員の一年間を預けられ、最高学年として臨んだ1年間の答え合わせ、それが今年の慶早戦である。六十六人の部員全員の想いをぶつけ、慶應義塾の代表として、全員で戦う。誰か一人でも欠けてしまってはこの目標は叶わなかっただろう。真に全員が当事者意識をもって目標に向け奔走することができるはず。過去のお世話になった先輩方の覚悟を胸に、そして自分を育ててくれた慶應義塾體育會フェンシング部と自分に関わってくれた全ての人への尊敬と感謝と恩返しを込めて、自分の人生最大の覚悟と情熱をもって命を懸けて慶早戦に臨む。多くの人から愛を受け、多くの人を全力で愛した自分にとって、長くも短い本当に本当に幸せな夢の終着点。その最後を嬉し涙で締めくくるために。
応援のほど何卒よろしくお願い申し上げます。
ポエマー過ぎますね。少し自分に酔い過ぎかなあとか思って、同期にもっとこの文章をいじられると思っていたのですが、あまりいじられず、きっといじれないくらい、本気で酔っていると思われる人間になってしまったのだろうと思います。恥ずかしいとは思いませんよ。そして、慶早戦を経て、書いた文章を以下に添付します。
慶早戦を振り返って
本当に人生で最高の一日だった。幸せだった。自分のすべてがそこにあった。目標は達成できなかった、しかし目的は叶った。
慶早戦総合優勝という目標にはあと7点足りず、たった7点されど7点という状況で叶わぬ夢となった。全責任は4年生にあり、3人のリーダーにある。自分たちのせいで慶應に優勝を持ってくることができなかった。本当にあと一歩チームとして足りなかったということだ。悔しくて悔しくて、閉会式ではずっと泣いていた。早稲田の校歌を聞きながら記念館の天井を見上げ、涙が止まらなかった。試合後に円陣を組んで若き血を流したかった。自分の責任である。ごめんなさい。
自分の試合はどうだったかな。覚悟決まりすぎてずっと震えてたな。1試合目は熱くなって熱くなって、ほぼ記憶にない。完全に入り込んで、本当に楽しかった。2試合目はまた不安が出てきたけれど、自信をもって全力で動き切った。技術はないけれど、想いだけで戦う、自分らしい最後の試合だったと思う。改めて本当に楽しかった。1年の慶早戦で〇〇に、3.4年の慶早戦は一緒に出るからなと言われたのを今でも覚えている。4年の最後の試合で、4年生4人で慶早戦の舞台で戦えたことは本当に幸せだった。ありがとう。
あの試合会場を見ればわかるけれど、慶應フェンシング部は部内ではもちろん、部外の多くの人からも応援されるチームになれた。組織として強くなった。本当に最高のチームだ。
女子フルーレありがとう。どんなに自分が女子のみんなにプレッシャーをかけたかは計り知れないくらいだけれど、本当に勝ってくれると信じてたよ。全員で悩んで苦しんで、全力を出して、本当に感動した。おめでとう、ありがとう。嬉し涙を流せたよ。
本当に泣きっぱなしの一日だった。最初の女子サーブルで頑張っている姿を見て泣いて、男子エペが負けたのを見ても泣いて、女子エペは見れなかったけれど、アップ中にさとこさんと長谷山さんの前で泣いて、ずっと泣いて、緊張して不安で。澤田さんとの最後のレッスンの後も泣いて。トイレでも泣いて。自分の試合が終わって、さとこさんと長谷山さんに泣きついて。女子フルーレの試合は最後の方はずっと泣きながら見ていて、勝った時は泣いて。男子サーブルが終わって、総合優勝できなかったと聞いても泣いて、閉会式も泣いて。本当にいろんな感情をくれた慶早戦だった。一生忘れられない。
多くの応援してくれた方、サポートしてくれた方、先輩、後輩に感謝する。澤田さんとさとこさんに恩返しできたかな、出来てたらいいな。
多くの想いを背負って、慶早戦の舞台に立った。自分のために、みんなのためにすべてを1年間、全力で。自分の目標は慶早戦総合優勝。それは達成できなかった。でも、自分のフェンシングを続けてきた目的は一生の仲間を作ること。そして慶應フェンシング部に恩返しをすること。目的はどちらも叶えた。どんなに苦しくても部活を続ける原動力となった、この目的は得た。自分は本当に幸せ者だ。
高校で引退するとき、インターハイ予選の団体の前も自分は一人で泣いていた。よく覚えている。試合前なのに泣いた。試合後、完敗してからさと子さんと澤田さんの前で泣いた。その時は自分はまだ子供で、みんなの頑張りを知らなかったから、まるで自分一人で頑張って、自分一人で戦っていると勘違いしていた。みんなは自分を信じてくれていたのに、自分はみんなを信じていなかった。だから負けた。SFCはチームとして完成していたが、自分は個人でしかなかった。でも大学では、引退の慶早戦では、みんながいた、仲間がいた、応援してくれる人がいた、その存在を自分でも認識して、自分もみんなを信じていた。みんなも自分を信じていた。本当に大好きな組織だ。目的を達成できた。愛している。
後輩たちの顔を見た。声を聴いた。多くの後輩が応援してくれて、感謝を伝えてくれた。自分は後輩たちに何か残せたのだろうか。今後を担う彼らの心に残れたのだろうか。数年、十数年、数十年後まで、慶應フェンシング部が成長し続けられる組織であることを願って、ここまでの全ての自分の在り方が慶應フェンシング部への恩返しとなっていれば嬉しい。まだ、返し切れていないけれど。
本当に幸せな1日でした。フェンシング人生で最も悔しみ、最も喜んだ一日。申し訳ないけれど、この日のためだけに7年間があったと言われてもお釣りがくるくらい幸せだった。本当にありがとう。ということで戸田拓海のフェンシング部人生編終了です。なんかハンターハンターみたいですね。最終学年編長すぎでしょ。ここまで読んでくださった皆様、もういらっしゃらないかもしれませんがありがとうございます。もしいらっしゃるのであれば、あなたは戸田のことがかなり好きということです。はい、どうでもいいですね。まとめさせていただくと、中学、高校と自分のことしか考えていなかった自分ですが大学4年間は「人と向き合った」4年間であったと考えております。「情熱のフルーレ」は組織として完成しました。みんなありがとう。ここからは少し趣向を変えて、まるでいつもの集合のような話を綴りますから、まだ読んでくださる方がいらっしゃったら是非お付き合いください(完全に個人的な意見ですし、自分も全然できてない部分がありますがご容赦ください)。
「今に滾れ」
多くの方に、これは何て読むのとか、卑猥なニュアンスはありますかとか言われましたけれど、大真面目です。慶應義塾體育會應援指導部の言葉に「滾れ、若き血」というものがあります。そして、高校の時のメンタルトレーニングで「今に生きろ」という言葉を教わったのですが、それが非常に印象的で合わせ技一本の造語が「今に滾れ」です。我ながらいいスローガンだと思っております。過去の自分の在り方、未来の自分への揺らぎ、他者からの見え方などなど、全部まとめて余計な思考です。ただその瞬間を大事にし、その瞬間をいかに必死に生きるかということこそが人生成功の秘訣なのではないかと自分は考えます。フェンシングに限らず、何をやっていてもその瞬間の自分がすることに集中できていなければ、その後のあらゆるものはついてきません。その瞬間、瞬間を必死に生きた結果、きっとその先に何か意味が見出せるのだと思います。男女関係ではどうですかね、ちょっとわからないですね、ノーコメントです。
「目標と目的と夢」
目標と目的を持った方がいいと前述でもありましたが、目的とはつまるところWHYの考え方です。目的があれば、「なぜ、こんな苦しい思いをしてまであなたは〇〇をするの?」と聞かれたときに、「自分にはこんな目的があり、こんな原動力があるからやるしかないんだ」と自信を持って言えると思います。これがあるのとないのとでは、主体性が変わってきますから、何かをする上で最も重要な最上位の概念だと思います。そして、次に目標ですね、具体的に達成したいことが目標になりますが、何をしていくうえでも目標が無かったら人間は頑張れません。学校の勉強を高校の時に頑張ったのは行きたい学部に行くという目標があったからですよね。目標無くして人は頑張れないのです。そして、夢とは何か。夢とは目標よりも全然遠いものです。目標とは具体的に道筋を立てればぎりぎり達成しているイメージが湧くものです。今回の慶早戦総合優勝は、あと一歩のところまで肉薄し、一年前から自分としては実際に達成しているイメージが何度も浮かびましたから目標として適切だったわけです。ですが、自分が今からフェンシングを頑張ってオリンピックに出ると言い出しても、それは自分でイメージできませんし、その道筋も想像つきませんから夢になるわけです。夢を持つのは大事です。夢を見て、必死に生きているうちにその夢が目標に変わる、そんなことは多々あるかと思います。逆に言うと、夢にも思えないことは絶対に達成できないですからどんなに具体性がなく、道筋がわからなくてもまずは限界を自分で決めず、イメージを持とうと努めることは非常に大事なことです。そう考えると、「夢も目標も持て」というのが正しいような気がしますし、イメージには無限の可能性がありますね。今年の男子フルーレリーグ戦優勝も、女子フルーレ1部昇格も、慶早戦の女子フルーレの優勝も、慶早戦の総合優勝も、すべて元はといえば、イメージも湧かないような夢だったわけです。それが、日々全力で過ごしているうちに目標に変わっていたわけです。自分も今、慶應フェンシング部に振られ、新たに真剣になれる何かを探そうとしているのですが、自分には夢があります。その夢はあえてここでは言いません。理由は恥ずかしいからです。ですが、それはまだ夢に過ぎず、どうしたら達成できるかも分かりませんし、達成している自分のビジョンもほとんど描けないわけです。これこそ夢です。目標になったら胸を張って、みんなに公開しますよ。また、読んでくれているか分かりませんが来年の女子フルーレに向けて少し厳しいことを書きます。1部死守をきっとフルーレ女子のみんな、そして男子のみんなも考えているのではないかなと思いますけれど、それは夢ですか目標ですか。慶早戦の女子フルーレで起こした奇跡をリーグ戦でも起こさないといけないわけですけれど、そのイメージはクリアに湧いていて、その道筋は分かっていて、そして本当に当事者意識をもって本気になれていますか。1部死守している自分たちの姿が描けているのだとしたらそれは目標なのだと思いますが、自分はまだ描けるかどうかの岐路のぎりぎりのところで考え込んでいます。来年のフルーレのことはもちろん応援していますが、特に1部に上がったばかりのみんなには想像がつかないレベルまで本気になることが必要とされるわけです。もっともっとイメージをもって、命を削って頑張ってね。
「尊敬と感謝」
チームにおいて自分が最も重要だと考えていた概念です。66人もいる組織にいれば、もともと馬が合う奴からなんか得意じゃないなと思う奴まで様々いるわけです。しかも、部活動なんて実力の差はあれど利害関係もありませんから、だれが偉いとかは基本的には無いわけです。そんな中でチームメイト全員と上手くやっていくには、まず相手の良いところを頑張って見つけるところから始めてください。その人なりのプライドがあり、美学があり、情熱があるからこそその組織にいるんです。誰しもに必ず尊敬できる部分があるはずです。そしてその部分に感謝してください。感謝は思うだけではなく、しっかりと伝えなくてはだめですよ。その時初めて、信頼関係ができるのではないでしょうか。組織関係なくこれは大事ですね。少なくとも2.3年生の時の自分はこんな当たり前のことができていませんでしたから。
「自分の苦しみは自分にしかわからない、他人の苦しみもその人にしかわからない」
相手のプラスな面が見えて信頼関係ができたら、そこから相手の負の部分を見つめ始めるのです。知らないやつに自分の弱みを指摘されたら、なんだこいつ嫌だなとなりますが、信頼している奴だったら弱みを指摘されても、よく見てくれているなと思えます。もちろん自分の苦しみを他人に分かられたら、わかった気になるなよと思いますし、他人の苦しみを自分がわかっている気になっていたらそれはそれで相手も腹が立つと思います。だから、共感は出来ませんけれどいかに理解しようと向き合い続けることができるかこそが最も重要なことで、なれ合いではなく1対1の本当の信頼関係を築くにはこれは避けては通れない道なのです。でもその道に挑み続ければ、きっと一生の仲間ができます。そしてここまで向き合った先に真の意味で「互いを信じる」境地に至るのです。応援することと信じることは全く違うと思いますよ。
「他責ではなく、自責であれ」
当たり前のことですね。何かが生じたときにすべての責任がもしかしたら自分にあるかもなと一瞬考えることは非常に重要です。他責思考で逃げていればその瞬間は楽かもしれませんが自分自身の成長には全くつながりません。戸田も自分自身のプライドが無駄に高いですから、なかなか自分の非を認められず、素直じゃない大学生活ではありました。けれど、自分自身と向き合って、弱さを見せて、仲間たちに「やっぱりだめなやつだなあ、、しょうがないんだから本当に、、、」くらいに思ってもらえた方が本当は楽ですよ。こういうのが上手い部員を何人か知っていますけれど本当に凄いなあと思います。自分と向き合い、自分の責任と向き合うことは簡単なことではありませんがそこのプライドはいりませんから、自責思考が重要です。「まずは、ごめん。そしてありがとう。」こんな会話から始めましょう。昔の自分自身に言っているんですよ戸田君。
「何かをする奴は何かをされる覚悟のある奴だけだ」
自分はリーダーとして、いやそれ以前から多くの人に正論で攻撃していましたから、2.3年の時のように皆から正論で攻撃されても何も文句が言えないわけです。きっと、最後の年も戸田さんあんま強くないのになぜリーダーなのとか、なぜ団体メンバーなのとか、口だけだよなとか思われていたこともあると思いますが、それはみんなに厳しく言うリーダーという路線を自分の中で決めた瞬間から覚悟しなければならないものなわけです。何事であれ、人に対して良いことでも悪いことでも何かをするということは、自分もその人に介入してしまったわけですから何かをされても仕方がないに決まっていますね。逆に言えば、「人に愛される権利のある奴は人を愛すことのできる奴だけ」ということもいえるかもしれませんね。
「誰かがみてくれている」
ここからの人生、きっとこのフェンシングをやってきた7年間とは比べ物にならないくらい辛い瞬間が来ると思います。そして他のみんなもきっとそういう瞬間が来るんじゃないかなと思います。ですが大丈夫です。必死に生きて、もがいて頑張っていれば、自分の思い描く形とは異なるかもしれないけれど、絶対に見てくれている誰かがいます。もちろん後輩のみんなはこれからも自分はみています。誰か一人でも自分のことを見てくれていて、自分を信じてくれている人がいれば、救われる瞬間がきっとありますよ。自分はいろんな人に見ていてもらいましたが凄く救われました。最上級生としての自分は後輩のことをすごく見ているように振舞っていたかもしれませんが、本当は同期のことを一番見ていました。そりゃ、4年生は今まで見てくれていた先輩方がいなくなって結構、孤独ですから、4年同士ではお互いに見合うべきでしょ。だから結局、戸田は同期に甘かったんだろうね。ねえ、フルーレの同期の皆さん?、、、読んでないか。
「無理なことはやめよ、面倒なことは拾え」
人生いろいろなことがありますよね、やらなきゃいけないこと、やらなくてもいいけれどやった方がいいこと、やりたくないこと、出来ないこと、などなど。自分が頑張って頑張って、それでもやっぱり無理だってことはやらなくていいです。それをやっていたら自分が壊れてしまいます。でもその無理のラインって、自分の感覚だと、精神疾患になってしまって家から出られないとかそういうイメージですよ。健康と命は大事にしましょう。そういう時は無理せず、自分をいたわって、しっかり休んでください。お願いします。だけれど、それ以外の多くの面倒ごと、好きじゃないこと、はお願いしてでも拾いに行った方がいいです。その瞬間はきっとめんどくせえなあと思ってやりたくないですが、そんなことをやっていると、気づいたら自分は成長しているし、周りの人も自分を認めてくれるんです。「情けは人の為ならず」という奴ですね。
「プレイイングとマネジメント、フェンサーと體育會部員」
今年一年間、組織というものを常に考える上でチームマネジメントに重きを置きすぎて自分のプレイイングに集中できなかった瞬間は正直ありました。というかここまでの文章を読んでも、自分が結果主義や技術的なことをいかに考えてなくて、感情論とチーム論で生きていたかがよくわかると思います。言い訳みたいになってしまいますが。例えばですよ、自分の大学の研究室であれば、教授以外の先生方が実験をして、多くのデータを取ってくるわけです。そう、教授は1年間ほとんど実験はしないのです。そして、ラボメンバーのデータを定例のミーティングに集積して、そこでラボメンバーと教授が議論を交わして研究が進むわけですけれど、やっぱり中心となる教授の意見がないとなかなか研究は進まないわけです。基金や学会情報などを取ってくるのももちろん教授ですから、教授は実験はしないが、ラボメンバーが自主的に研究をしたいと思えるような環境を整備するというスーパーマネージャーなわけです。そのようなマネジメント、つまり、部員が自主的に頑張りたいと思える環境を提供することが幹部としての自分の使命であり、チームマネジメントであったわけで、その大半は部のマネージャーのみんなやOBOG、監督・コーチが担ってくれていましたがどうしても自分がやらなければならないチームマネジメントもありました。それと、自分のプレーヤーとして結果を出す姿勢、というものは必ず両立しなければいけないものではありますが、容易ではなかったです。そして、弊部のプレーヤーには一人のフェンサーとしてと體育會部員の一人としての2面性があるわけですが(ちなみにマネージャーにもフェンシングのマネジメントと體育會部員としてのマネジメントの2面性がありますが今はプレイヤーとして自分の話を書きます。)その比重というのは人によって異なるからこそチームをまとめるのは難しいわけです(ただフェンサーとしての側面しかないのであれば、服装や集合時間に厳しくする必要もありませんからね)。団体主義と個人主義という話にも近似する話かと思います。自分の場合、「フェンシングは嫌いだ。この部が大好きなんだ。」と幹部決めミーティングで発言して皆に大バッシングを頂いたように、體育會部員の一人としての側面がかなり強いです。だからこそ、體育會としての在り方は非常に重要視していましたし、日々部の在り方については考えていましたが、フェンサーとしての側面が弱すぎるあまり、なかなか結果のでない選手になってしまったのではないでしょうか。この話は體育會の目的である「業績を上げること」と「人を育てること」の話に当てはめても非常に合致する話であり、今年の4種目を比較するとどちら側に入るか、どんな構図だったかというのを少し考えてみるのも面白いかと思います。きっと主将が一番この構図に苦労させられたんでしょうが知らなかったことにします。別に絶対にこっち、と分けられるものではなく、状況やタイミング次第でその立場も流動性のあるものではあります。ちなみにですが、この2つの要素はどちらも欠かせないものでありますから、それこそ比重の異なる人間がたくさん混ざり合って、どちらの要素も最高点をたたき出すという、どっちも取るというエゴイズムを組織としては見せるべきなのです。
「酒」
閑話休題。そろそろ本当に読んでいる人もいなくなった頃合いかと思いますから書きますけれど、お酒は良くないです。母に昨年くらいですかね、「拓海はお酒を知ってから輝きを失った」といわれたときは流石にショックでした。自分は自他共に認める酷い酒癖を持っていますから、それはそれは多くの方にご迷惑をおかけしました。黙って寝ていればいいのに、説教を始めたり、泣き始めたり、これ以上は書けませんけれど、普段の想いがきっと過剰にあふれ出してしまうのだと思います。一緒に泣いてくれた人はありがとう。お酒泣きではなく、嬉し泣きがしたいですよね。でも飲み過ぎて練習に支障を出した暁には練習後に自己嫌悪に陥ってしまいますから自分を好きでいるためにも飲み過ぎは本当に良くないと思うのです。こいつとは上手く付き合っていく方法をぜひ知りたいものです。とにかく、自分が言えたことでは本当にありませんが、練習に支障がない程度にお酒は嗜めたらいいのかなと思います。嗜好品ですから、身を削って頂くものではないですからね。この場をかりて改めて多くの方に謝罪申し上げます。それでもまだ戸田と飲んでくれるという人はぜひ連絡をください。だいたいお酒とは関係ないですけれど、自分は部活では偉そうに正論を言っていましたけれど、本当は嘘もついていれば隠し事もたくさんしているというダメダメちゃんですから、誰かさんに言われましたけれど多重人格なんですかね。まあいろいろありますけれど、自分は部員のことが好きということは何があっても変わりません。絶対です。だからこそ自分の片想いなのですよ。きもいね。
「結果への執着」
自分はフェンシングに関していえばセンスもなく、運動神経もなく、フェンシング自体も好きではなく、好きなものはフェンシング部だけです。それこそ、結果ではなく居場所を求めてしまうという自分の嫌悪対象の一番が自分だったわけです。だから、まあ、なあなあとフェンシングを頑張っているフリをきっとずっとしていたのでしょうけれど、最後の秋シーズンは少し上手くいったと思っています。みんなからもそう言われます。主将と次期主将が本当に喜んでいてくれてそうでした。きっと今までの個人戦とは覚悟が違ったのだと思います。それこそリーグ戦はチームで勝てば自分が出場しなくても最悪よいとか甘えた考えをきっとどこかで思っていて、団体に出たいけれど、団体に出ている自分にも大して自信が湧かず、当事者意識はありましたけれど、きっとチームとして勝てば良いとどこか思っていたのかもしれません。出れなかったときはそれはそれで本当に悔しいので、自分の本心がなんなのか自分でもよく分かりません。自己実現欲はありけれど、自分に自信がないみたいな感じですかね。でも、一番最後のシーズンは絶対に慶早戦に出たいと思ったのですよね。そのためには絶対にメンバーに選ばれなければならず、個人戦でそこそこの結果を出さなくてはならないと、自分個人のフェンシングに対してやっと、覚悟が無意識下で決まったのではないでしょうか。今まで自分で決めていた限界を無意識に超えたのかもしれません。だいたい、メンタルもポジティブなタイプではないですから、「会場で自分が一番強い」とか思い込むこともできず、個人戦なんてずっと苦しくて、スポーツの世界には本当に向いていないクヨクヨしたメンタルだったなあと思います。最後の最後で1枚だけ小さな壁を壊す程度の執着と覚悟があったのかもしれません。
「平等に愛する」
これは本当に1年間、リーダーとして悩んだことです。自分も人間なので、人の好き嫌いはあります。この人、波長が合うなとか、話すの緊張するなとか、思ってしまいますけれど、一人の上級生としては特に後輩には平等に接して、そこに差をつけてはいけないし、後輩にそれを察されてもいけないと日々思っていました。実際、そんなことは出来ていなかったわけですけれど、そういう意識はしていて、ではどうするのという話ですが、自分としては「自分から部員に対する出力は全く同じであろう」としていました。自分の提案や機会提供は全部員に平等であり(それでもできていない部分は多々ありましたが)、それに対してリアクションがあれば反応をするというようにしていました。ですから、自分から後輩をご飯に誘ったりはあまりできず、自分としてはかなり難しさを感じていました。消極的でごめんね。逆によくアクションしてくれる後輩はすごくありがたく、怖がらないで誘ってくれてありがとうという感じで思っていました。
「人との関わり方」
前述したように自分は、尊敬と感謝があり、弱みを見せることができて互いに向き合い続けることができる人間関係を馴れ合いではないものと定義していますが、やはり1対1の人間関係をとても大事にしていました。3人以上いると、自分が話さなくてもいいやと思い、黙ってしまうこともありますしね、1対1の方が自分は好きです。そして、フェンシング部には2種類のタイプの人がいて、フェンシング部の人とだけずっと一緒にいるタイプとフェンシング部の人とはプライベートでは全然会わないタイプがいます。もちろん戸田は前者です。特に最後の一年なんて部員以外と会わな過ぎてどれだけ多くの友人に付き合い悪いなと思われていたか分かりません。そんな方々には適当な連絡しかできず、ごめんなさい。どちらがいいという訳ではないですが、體育會で4年間目標に向かって切磋琢磨する仲間たちとの日々は今しか大事に出来ないですから、気持ち悪いと周囲から言われるくらい公私含めて一緒にいた方がいいんじゃないかなと自分は思ってしまいます。こんなだから、「フルーレは本当に仲がいいのか、気持ち悪いのか紙一重だよね」と、同期にいじられてしまうわけですが、自分は気にしません。これは完全に自分の意見ですし、このタイプの関わり方をしていた部員とは自然と仲良くなった気もします。ですが、ここには大きな落とし穴があり、井の中の蛙にはなっていいわけもなく、たまには他の世界で頑張っている人と話して、感化されて、影響されて、自分を鼓舞するということも非常に重要なわけです。まあ、何が言いたいのかわからないですが、自分がどっち側の人間でありたいのかくらいは自覚的になって自ら選択した方がいいのではないかと思います。周囲にいる人間はいい意味でも悪い意味でも自分自身の在り方に多分な影響を与えますからね。
「終わりよければ全てよし」
自分のフェンシング人生、これにつきました。7年間全く結果が出ていなかったですが、最後の最後で個人戦で自分のフェンシングができるようになり、リーグ戦やカンカレ、インカレ、全日本で何度も辛酸を味わいましたが慶早戦はなんか上手くいった気分になっています。別に個人スコアは実はマイナスですし、総合優勝も出来ませんでしたが、部員全員で目標に向けて戦ったあの大会を最後に迎えればそんな気分にもなりますよ。フェンシングの技術的な内容だけでなく、仲間との信頼とか、チームの在り方とか、あんなに揉めた同期がなんかまとまった気がしたこととか、、、とにかく、自分の道の過程で上手くいってもいかなくても、自分が納得した状態であれるように最後まで走り抜けきること、継続し続けることこそが「終わり良ければ全て良し」ということなのではないでしょうか。自分自身の納得感の問題です。
「自信と集中」
これは澤田さんと坂藤君から頂いた言葉です。試合前になるとみんなの前の集合でも、「いかに自信をもって、本番集中できるか」と皆に言っていたかと思います。「今に滾れ」とニュアンス的には同じような気もしますが、これが本当に難しく、実際の結果に最も関係する気もしますが、自分はここのメンタルコントロールに悩まされ続けましたね。
「嫌われるということ」
前述したように、人に嫌われることはきっと誰にとっても嫌なことなのではないかなと思います。ただ、嫌われるように振舞わなくてはならないシーンが意識的にも無意識的にも来るはずです。その時に重要なことが3つあると思います。1つ目は嫌われるような自分の言動が本当に正しいものなのかどうか省みることが重要です。自分にもし非があったと思うのであれば、しっかりと謝罪しないとそれはいけないわけです。2つ目は信頼関係を構築したうえでの言動はなかなか嫌われないということで、嫌われる言動をする前に相互信頼は構築しなくてはならないのです。3つ目は人に嫌われるかもしれないと恐れているということは自分が人に好きでいてもらえる自信がないことの裏返しです。まずは自分自身が自分のことを好きでいられるような生き方をすることが嫌われない第一歩だと思います。
「奇跡」
奇跡とは何か、その定義はなんなのか、どこから奇跡なのか、そもそも奇跡などないのか分かりませんけど、自分の中では夢が叶ったらそれは奇跡なのではないかなと思ってしまします。ある成果について当たり前に努力をしたのだから、奇跡ではなく、それは当然だと、考える方もいらっしゃるかと思いますが自分はそこまで強気には考えられないので奇跡という言葉を使います。今年度、個人的には2つ奇跡がありました。1つ目は慶早戦の女子フルーレの勝利。これは本当に夢が現実になった奇跡の勝利だと思います。今思い出しても涙が出てきますもん。2つ目は何度も独りぼっちだと錯覚した自分が、こんなにも素敵で大好きな仲間たちに囲まれていたということです。慶早戦で全員が同じ方向を向いている感覚、自分のことをいろんな意味で支えてくれる人が本当にたくさんいてくださったこと、これは精神的に子どもで本当に人間関係が不器用な自分にとっては奇跡なのです。
「愛」
自分でも人を好きになることとはどういうことか、簡単に「部員を愛している」とか言ってますけどそれってどういう意味なのか、いまいち言語化できていません。でも、納会であれだけ泣いちゃうってことは相当みんなのことが好きなのだと思います。でも自分の想いの一つとして、リーダーだったかどうかは関係なく、部員については誰一人諦めず、全員に期待し続け、全員を応援し続けたというのはあり、それがそのうち愛になったのですかね、、。あと、本当に自分について思うこととしては、人がいないと何もできないダメダメちゃんということです。フェンシングの剣も、結局最後まで組み立てられず、試合前に同期にお願いしてましたし、メンタルが不安定な時も誰かしらに話を聞いてもらってましたし、慶早戦が大規模に開催できたのも、それこそみんなのおかげです。他にもたくさんありますよ。フルーレチームがあんなに団結できたのは一人一人がそれぞれ役割をもって全力で活躍してくれたからですし、自分以外の65人にどれだけ甘えてきたか、想像もつきません。それと同時に、少しおこがましいですが、自分は実は甘え上手な人たらしなのではないかとも何度か思いました。こんなに厚顔無恥な自分のことをいろいろな人が支えてくれるとしたら、みんなが実は自分のことを好いてくれていると思わないと辻褄が合わないなと。いや、まあ、実際のところは分かりませんけどね。自意識過剰ですね、失礼しました。なんでもいいんですけど、とにかく自分は「人」がいないと何もできません。多くの愉快な人たちに囲まれて本当に自分は幸せでした。自分に関わって下さった皆様、本当に愛しています。そしてありがとうございました。これからもたくさん甘えさせてください。もちろん恩返しもします。
ということで、大事にしている考え方シリーズおしまいです。最後に様々な感謝の想いをこの場を借りて述べようと思うのですが、そもそもここには書ききれませんので、部員はあの手紙で許してください。手紙でも全然足りませんから、また、会ってお伝えしたい所存です。
同期へ
本当にわがままで自分勝手で、このブログでもめちゃくちゃに書いてますけど、いろいろとご迷惑をおかけして本当にごめんなさい。自分の至らぬ言動で、たくさん不快にしたと思いますし、たくさんの不和を呼び込んだと思います。ただ最後の最後は18人全員でまとまって、笑顔で引退できましたよね?(そういう認識でいいですよね、、、)こんなにまとまらず、いろんな方向を向いた愉快な代は後にも先にもないと思いますがいろいろな意味で伝説を作れたのではないでしょうか。いろいろと悩んでいる自分を支えてくれて、そして本当に成長させてくれて、感謝しかありません。4年間、7年間、はたまたそれ以上。本当にありがとう。
伊勢、凄く嫌な思いをたくさんさせてしまってごめん、それでも上手く一緒にやってくれてありがとう。
あやこちゃん、大事なタイミングでずっと真剣に話をしてくれてありがとう、真剣なフェンシングは格好良かった。
毛塚、きっと何度も意見は対立したけれど、向かっている先は同じで、マネージャーをやってくれてありがとう。
佐藤、いろいろとごめんな、きっと大変だったと思うけれど、ずっと一緒に頑張ってくれてありがとう。
みらく、いつも笑顔にされてしまう理由がわからないけれど、楽しかったよ、ありがとう。
ちえちゃん、凄く無茶を言って、いろいろと迷惑をかけたけれど、最後まで助けてくれてありがとう。
堤、なんで堤が話すと空気が和むんだろうね、絶対に同期に必要な存在でした、ありがとう。
みやびちゃん、マネージャーとしてプレーヤーのことを思い続けてくれてありがとう。
なつきちゃん、実はずっと互いに期待して応援しあってたよね、好きでいてくれてありがとう。
服部、高校の時からいろんな面で意識させられていて、負けたくなかったです、ありがとう。
情熱のフルーレへ
リーダーになった当初はこんなにもいいチームにはなると思っていませんでした。それは自分に自信がなかったのもありますが、組織で同じ方向を向くってそんなに簡単じゃないですよ。でも自分のわがままにたくさん付き合ってもらって、みんなの意見を聞いているフリをしても怒らずにいてくれて、ダメダメな自分を認めてくれて本当にありがとう。そして最後だから言います。全員、ついてきてくれてありがとう。改めて愛してるよ。
佑、とてもあたりが強かったのは申し訳ないけれど、常に味方でいてくれてありがとう。
一輝、きっと俺のことは面倒だったと思うけれど、フルーレチームを好きになってくれてありがとう。夢叶えような。
ごっぱ、たくさん意見を押し付けたよね、だけど一緒にチームを作ってくれてありがとう。
小西、戸田のことを上に引っ張ってくれてありがとう、いつもライバルでありまぶしかったです。
ここちゃん、仲良くなってびっくりだよね、最後まで戸田に向き合ってくれてありがとう。
後輩には少し厳しくいきますね。
金井、後悔するな、自分の道に他人の意見は関係ない。
ゆうき、考えすぎるな、いざという時に自信をもって挑戦するしかないよ。
二村、自分の良さを理解しろ、自分の大事にしている軸だけはぶらすなよ。
あやの、夢叶えるんだろ、ずっと一緒に戦ってやるよ。
木内、強い時・楽しい時をイメージしろ、ためらいがなく、笑顔の時が一番強いぞ。
だいご、自分の好きな仲間を大事にしろ、弱みを見せて仲間に存分に甘やかしてもらえ。
しゅうぞう、もっと上の世界に行け、慶應フルーレの歴史に名前残すんだろ。
ルチア、自分のイメージできる限界を超えろ、もっともっと先の世界をイメージできるはず。
すずか、自分のために生きろ、もっとエゴイストになっていいんだよ。
木村、大学生活フェンシングにかけろ、きっとそれが幸せだよ。
谷、弱い自分を倒しに来たんだろ、それならもっと泥臭くあれるぞ。
美咲、自分自身との戦いに勝ち続けろ、一番の制御者で理解者はきっと自分だよ。
平田、思考し試行し続けろ、それを楽しんでいることが強みなんだよ。
にこちゃん、もっと執着しろ、自分にしかない強みを理解するんだよ。
こんなこと書いてみましたが、本当に全員に感謝しています。1年間ありがとう。関わった責任を取って、これからも見守っています。自分の大好きなチームを、将来の慶應フルーレをどうかよろしく。
他の種目の後輩へ
本当はもっと話したかったですよ。一人一人に想いがあるけれど、なんといってもこんなに話が長くて情けないリーダーについてきてくれてありがとう。みんなが最高の慶應義塾體育會フェンシング部を作ってくれたと思っています。引き続き活躍を見せてください。
将来の慶應義塾體育會フェンシング部員へ
きっと何年後でも自分はサポートしてあげたいという気持ちはあります。ただし、行動が伴っているかは分かりません。将来を担う君たちが自分たちを大きく超えて、とんでもなく素晴らしい組織にしてくれることを願っています。特に塾高生は怖かったよね、、応援しているよ。そして、慶應大学を受験して、フェンシング部に入ろうと考えてくれている子たち、戸田には想像ができないほど険しい道だと思いますが、きっと乗り越えて、道場で活躍してくれたら嬉しいです。
先輩方へ
本来であればお一人ずつお礼を申し上げたいところですが、本当にお世話になった方が多すぎるので失礼しますが、とにかく生意気で、めちゃくちゃでダメダメな自分のことを温かい目で厳しく、そして優しく見守って下さって本当にありがとうございました。本当に生意気だったと思うのですが、先輩方から頂いたもので今の自分が成り立っています。これからも可愛がってくださると嬉しいです。
家族へ
自分は家族への感謝がつくづく足りていないような気がしています。自分の日常の当たり前を作ってくれて、ずっと応援してくれて、本当にありがとうございます。もう少しだけ、面倒見てください。どうかお願いします。
部活外の友人へ
付き合いが本当に悪い自分ではありましたが、時々話を聞いてくれて、一緒にいてくれて本当にありがとう。これからは結構暇になってしまうので仲良くしてね。特に應援し過ぎて留年したそこの君、どうせ読んでないね。
伊藤監督へ
長い間本当にお世話になりました。生意気な自分の話も長い時間をかけてしっかりと聞いてくださり、時に優しく、時に厳しく様々なことを教えて頂きました。最後の半年、伊藤監督がいらっしゃらなかったことを謝るのはもうやめてください。監督の考えのもと、しっかりと運営し、あの慶早戦が開催できました。本当に長い間、慶應義塾體育會フェンシング部へのご尽力、本当にありがとうございました。どうか、お体を大事に、またいつか道場にいらっしゃって下さい。
さとこさんへ
なんとお礼を申し上げればいいのでしょうか。言葉では表現できませんが、さとこさんの魂は頂いたと思います。自分の中で生かし続けます。自分の考え方の多くを頂き、そして多くの時間をともにし、ずっと味方で、自分のことを見続けてくださってありがとうございました。最後の慶早戦、恩返しになっていたら嬉しいです。きっと、「あなたは現役が終わったここからが本番なんだから」と仰るような気もしますが、そのうち帰りますから。
澤田さんへ
本当に下手くそで弱々しくて教え甲斐の無い教え子だったかと思いますが、最後まで見てくださって本当にありがとうございます。人生の師匠です。自分がここまで頑張れたのも、フェンシング部で継続できたのも、澤田さんのおかげです。何かあればすぐに澤田さんに泣きついて相談してしまっていましたが、心のよりどころの澤田さんに相談してしまうのは仕方ないですよね。多くの生き方を学ばせて頂きました、悪いことから良いことまで。本当に本当にお世話になりました。ありがとうございました。
もっともっと書きたいところですが、自分の指も長時間のタイピングでそろそろ限界なのでご容赦ください。ということで、これで本編はおしまいです。もしここまでしっかり読んでお付き合いしてくださった方がいれば、本当にありがとうございました。そんなあなたはきっと戸田君のことが大好きなのでしょう。本当にドンマイ。ぜひ「全部読んだよ、長かったね、大好きだよ」と連絡をください。冷たくあしらいますので。我ながら、長すぎると思いますし、マジで卒業論文かよって感じかとは思いますが、こんな黒歴史を最後の最後で世界に発信してしまっていいのだろうかと未だに悩んでおります。普段の集合も決起集会も納会も、そして引退ブログも本当に長いですから言語化が下手くそなことが露呈してしまっているようです。本当に最後までクサいのが、ガチなのかピエロなのかよくわかりませんでしたけれどきっと本性なんでしょうね。とんだコンプライアンス違反の「Pretender」ですよ。フェンシング人生編、全カットでもいいかなと最後まで悩んでいますが、まあ載せますよ。自分の弱みを見せることは悪いことではないと自分は思いますが、さすがにここまで赤裸々に書くと、情けなさが勝ってしまいますから本当に怖いと思いつつ、きっといつかどこかの後輩がこの文章を読んで何か少しでも気づきがあってくれたら本望です。あとは将来、自分が悩んだときにでも読みます。ということでこのやばすぎる文章をフェンシング部のウェブサイトに投稿して成仏して頂ければ幸いです。改めまして、7年間、自分に関わって下さった皆様、本当にありがとうございました。本当に本当に幸せな夢のような時間でした。では、また!!
この代の引退ブログのトリを主将を務めました、4年サーブルの小澤祐太君に渡します。長かった引退ブログも次で最後です。お付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございます。小澤君は本当に格好いい主将で、自分としては本気で、小澤君が主将のチームの副将をやれて良かったと思っています。代替わりしてからというもの、自分は小澤君に無茶ぶりの提案ばかりをして、いろいろと悩ませ、本当に「小澤と戸田は合わないな」とか思った時もありましたけれど、それは戸田が主将の苦悩を知らずにめちゃくちゃ言える立場だっただけです。こんなに自分勝手に無責任に戸田がやっている横で、組織全体を俯瞰した視点で見ながら、時にはいろいろな役を羽織って、孤独に悩んでいた小澤君を尊敬しております。何度、サーブルの後輩に戸田がぶちぎれようとしたところを上手く守ってあげていたか、小澤君のリーダーシップは自分と違って、行動と背中で見せるものでしたからかっこよかったですね。あとは、1月と8月のタイミングで小澤君は壊れかけていますけれど、その時はごちゃごちゃ言ってないでもっと心からサポートしてあげればよかったなあと強く思っています。本当に大事な時にごめんね。また、やっぱり忘れないのは学生カップですよね。4月の学生カップの直前に、小澤主将から下級生や4年に向けて厳しいことをいうタイミングがあったのですが、「結果の伴わない努力は努力とは言わない」と豪語して(自分は今でもそれには納得していないですが)、背水の陣の状況で学生カップ3位ですよ。いや、出来すぎだろ。さすがに凄すぎる。この結果を見たときは流石に今までの小澤君の努力と覚悟を見せつけられましたし、嬉しい反面やはり悔しいというライバル意識もかなり刺激された記憶があります。そういう小澤君の背中を見て自分は触発されていますから、狙い通りではないんですか?ああそうですか、「ターゲットが違う、お前らは黙っててもやるから勝手にしろ」とのことでしたね。確かにそういう話でしたね。ただ、8月の夏合宿の中日後くらいの夜かな、たまたま小澤君と同じ部屋に移動させられて(いびきが酷いと噂だったので睡眠を人生の最大優先事項においている自分としては同じ部屋にならないまま引退したかったのですが)、主将としての表テーマとか裏テーマとか、本音を聞いて、弱い部分?をしっかりと見て、初めて小澤祐太という人間の中身に触れられた気がして嬉しかったです。それまでは、それこそ各場面で役を羽織っていましたから、熱いのか冷たいのか、自分勝手なのか他人思いなのか、感情的なのかそうでないのか、いや最後のは間違いなく前者ですが、自分にとってはいまいちつかめない人間だったような気がします。だいたい、多くの後輩は「戸田さん怖い」と印象で言ってますけれど、本当に怖い人は戸田ではなく主将でしたよ。まあ、怒っているのか叱っているのかはいまいち最後まで分からなかったんですけどね。いじるのはここら辺にしておきます。
とにかく、4年間、誰よりも隠れて結果に執着し続けて、最後の年にとてつもない結果を出して、主将としては、誰よりも大きな責任を背負って孤独に部のことを考えてくれた男が小澤祐太です。だからこそ、この男が自分の前にいてくれたことが自分にとって本当に幸せなことだったのです。リーダーとは種目の色を代表し、それこそ権利闘争的な側面も0ではない(こんなものは本当に必要ないですから、幹部決めを政治だなんて間違っても思ってはいけませんよ)わけで、なかなか上手くやっていくことが難しい関係性だと思っています。ですが、責任と覚悟の小澤主将、頭脳と結果の坂藤副将、愛と情熱の戸田、この三人のリーダーが意見は全く合わないですけれども、大喧嘩せずに、互いを尊重し、議論して進めていけたということは本当に奇跡に近いことなのではないかなと思っております。ただ、やはり年間目標を達成できなかったのはお互いの責任なので、一緒に一生悔やんでください。小澤君とは大学からの出会いでしたが、全然道場で遭遇できない環境だったにも拘わらず、切磋琢磨しあえて、議論して、泣いて、本当に楽しかったです。戦友として本当に尊敬していますし、大好きです。本当にありがとう。これからもよろしく。
ということで、そんな格好いい主将であった小澤祐太君が綴る、本年度最後の引退ブログをぜひ刮目して味わってください。
